アメリカのロサンゼルスで発生した巨大な山火事の総被害額は、20兆円とも言われるらしい。
その焼け跡を報道するに際し、FOXテレビのキャスターは「原爆投下後の広島のよう」と表現した。
それだけでなく、他メディアでインタビューに応じた人(つまり一般人だろう)も「広島級の壊滅状態が、何マイルにも渡って及んでいるようだ」と答え、
ロサンゼルス郡の保安官もまたメディア向けの記者会見で、「この惨状を見ると、明らかにこれらのエリアに原爆が落ちたような感じだ。だから、死者数に関しては良いニュースになるとは思わない」と発言した。
これらの発言を受け、ノーベル平和賞を受賞したばかりの日本被団協は
「こういった発言をする人がまだ世界にいるかと思うと、悲しい。
核兵器と重ねて同じように被害を言うのは、私たちには理解に苦しむこと」
と反応したとのこと。
(⇒ テレビ新広島 2025年1月12日記事:「核兵器と重ねる発言、理解に苦しむ」日本被団協 箕牧代表委員 山火事「原爆投下後の広島」と表現)
さて私は、この被団協の反応とは全く逆で――
アメリカのメディア・一般人・公人らがこの大火事の惨状を例えるのに「ヒロシマ」を引き合いに出したということに、むしろ感銘を受けた方である。
それは明らかに、あの広島原爆の惨状が、アメリカ人の中でも広範に認知されていることを示している(はずだ)。
これは言ってみれば、被団協をはじめとする日本のこれまでの「原爆広報」というものが、世界で確かに成功している証ではあるまいか。
むろん原爆の悲惨さを訴えるのを「広報」と呼ぶことこそ不謹慎だと指弾されるだろうが、しかし核兵器廃絶のアピールとは、これ即ち核兵器廃絶広報に他ならないはずである。
そしてついにその広報は、アメリカ人に大火事の焼け跡を見て「ヒロシマ」の言葉を口に出させるに至った。
おそらくは何百人・何千人・何万人いやそれ以上の数のアメリカ人が、心の中でヒロシマの言葉を連想したのではなかろうか。
これはやはり、今までのたゆまざる原爆広報の、大きな成果ではないかと思わずにいられない。
さて私には、今回の件について2つばかり気にあることがある。
一つ目は、「ヒロシマ」の名がアメリカ人にも浸透していることは確からしいとして、第2の被爆地である「ナガサキ」はどうなのだろうという疑問である。
アメリカ人が災害の惨状を見てヒロシマを(すぐ?)思いつくのに対し、続けてナガサキという言葉を思いつく人はどのくらいいるのか、という疑問である。
はたしてヒロシマ・ナガサキというのはセットで憶えられているのか、それとも1番目のヒロシマだけが連想されて2番目のナガサキはアヤフヤな記憶でしかないのか――
ここでもよく言われる「一番は記憶されるが、二番は忘れられる」という人間界の法則が働いていないのか、大いに懸念されるのだ。
そして、二つ目だが――
今回のような焼け跡を見て「ヒロシマ」を思いついたり口に出したりするのは、何もアメリカ人に限ったことではないだろう。
ヨーロッパ人もアジア人も南米人も、きっとヒロシマの語を思いつくはずである。
ではインド人・エジプト人・タンザニア人・パレスチナ人・オマーン人・タイ人・アルゼンチン人らがこういう焼け跡を見て「まるでヒロシマのようだ」「まるで核兵器が使われたようだ」と言ったとき、被団協の人たちは「こんな言い方をする人がまだいるのかと思うと悲しい、理解に苦しむ」とコメントするのだろうか。
ありていに言って、相手がアメリカ人だからこそこういうコメントをするのであって、そうじゃなければスルーしてるんじゃないかと疑問に思ってしまうのである。
私は賭けてもいいが、今までに自国・他国の災害や戦乱の跡を見て「まるでヒロシマのようだ」と言ったり伝えたりした外国人は、非常に多くいるはずである。
そして私は、それが別に不謹慎とも悲しいとも思わない。
それは逆に、原爆と核兵器の悲惨さの広報が、世界中に浸透すなわち成功していることを示すものだと思うからだ。