関西電力の経営陣が、その原発が所在する福井県高浜町の元助役の森山某氏(今年3月に90歳で死去)から巨額の「裏金」3億円超を受けていたということが、突如として露見した。
その森山氏(以下、周りの人がそう呼んでいたと言うから「M」氏と呼ぼう)の関電に対する恫喝というのは、関電の報告書を信じる限り、凄まじいものである。
ここでは事件の詳細には触れず(というより、そんなに調べられない)、個人の非商業ブログらしく、単に感想を書くだけにしよう。
感想の一つは、「やっぱり人間が死ぬというのは素晴らしい」ということである。
死は誰にも訪れる。
いかなる権力者も恫喝者も、全てこの世から強制消去してくれる。
いい人が死ぬのは、惜しいことである。
若くしての死や子どもの死は、傷ましいことである。
しかしそれらも、ろくでもない人間がずっと生きることに比べれば、何ほどのこともない。
M氏が死んだとき、関電の人たちは(特に折衝担当者らは)ホッとしただろう。快哉を上げただろう。祝いの飲みにでも出かけたかもしれない。
それは人として当然のことである。
そして(M氏が自宅に保管していたという関電関係の書類が今後どうなるのか知らないが)その記憶は、速やかに世間の人から消え去っていくものだ。
郷土の発展に貢献したとして賞をたくさんもらっているようだが、そんなものほとんど興味を持つ人もないのは、皆さん知ってのとおりである。
たとえどんなに権勢を振るおうとも地元の「天皇」と呼ばれようとも、その末路はこんなもの。
人生は儚く虚しく、しかもそれでよい――
こういうニュースを聞くたびに、そう感じる人は少なくないのではないか。
そしてもう一つの感想は、「やっぱり原発はなくすべきではないか」というものである。
おそらく高浜町に限らず、原発の立地する土地には今回のような話がゴロゴロ埋まっているのだろう。
原発立地の街というのは、一皮剥けばダシール・ハメットの『血の収穫』の舞台になったポイズンヴィルみたいな街なのかもしれない――
と、世間一般の人が感じるのは無理もない。
そういう土地から若者が出ていきたいと願うのは、むしろ健全な精神である。
先日の記事でも述べた「道徳リスク」というのは、企業だけでなく土地にもあるのだ。
つまり原発というのは、そういう道徳リスクをどうしても引き起こすから悪なのだ、という見方をされても仕方がない。
もっとも私が原発はなくすべきだと思うのは、そういう理由よりもっと強い理由からである。
すなわち、「原発があったら、戦争になったら困るから」というものだ。
東日本大震災の、むろん悪意のない自然界の津波による原発の破壊であっても日本は大騒ぎしたのに――
これが悪意を持って攻撃されたらどうなるか、そのリスクは莫大なものではないか?
グレタ・トゥーンベリさんらには悪いが、そんなリスクを負うくらいなら、火力発電で地球環境を悪くした方がまだマシではなかろうか。