9月15日、台湾との二重国籍問題とかがあったものの、蓮舫 氏(48歳)が民進党の新代表に選出された。
そして8月には、東京都知事に小池百合子 氏(64歳)が当選している。
日本の組織の中でも指折りの組織のトップに相次いで女性が就任したわけだが、本記事では彼女らの政策だの国籍問題だのには一切触れない。
(よく知らないことは書くべきではない、という金言に従う。また、以下敬称を略する。)
私が思うのはやはり、もし彼女らが美人でなかったらこんな地位に就くこともなかったろうな、というものである。
確かに、今の彼女らが美人だと言えば、「はあ?」という声どころかブーイングすら起きるかもしれない。
しかし蓮舫は1988年度の「クラリオンガール」(音響メーカーのクラリオンのキャンペーンガール)出身であり、小池百合子はアラビア語通訳を経たニュースキャスター出身である。
このどちらも、美人(と大勢に認められた者)でなければなり得ないものであることには、誰にも異論がないだろう。
もちろん彼女らは、ただの美人ではない。
好き嫌いはあるにしても、その能力を本気で疑うことは難しい。
(真に無能なら今日の地位には至れないはずだ。また逆に言うと、能力があるのと好かれるのとは全く別問題である。)
しかし、それでもなお思う――
もし彼女らが人間性も能力も全く変わらないながら、ただ一点顔がブスであったなら、どうだったのか。
美人でなければ、世に出る最初の一歩も踏み出せなかったのではないか。
美人でなければ蓮舫は庶民のオバサンで終わり、小池百合子は地味なアラビア語通訳として(ほとんど全ての人に名を知られず)キャリア生活を終えたのではないか。
我々は今、「美人過ぎる●●」とかの記事をしょっちゅう見ている。
たぶんその嚆矢となったのは、「美人過ぎる市議」というものだったのではないかと思う。
今、朝日・読売・毎日・産経などの主要大手新聞社のサイトを見ると、ほとんど必ず「美人」の文字が入った記事を見かける。
オリンピックの女性アスリートたちも、当然のごとく「美しさ」を冠して記事にされている。
かつて“社会の木鐸(ぼくたく)”と自称ないし他称されていた新聞社が、なぜこんな軽薄な――必ず女性のヌード写真を載せる大衆週刊誌、美少女の水着写真を決まって載せる少年マンガ誌や青年娯楽誌に準じるようなことをバンバンやっているのだろう。
それはもちろん、美人という文字や画像には、人にそれをクリックさせる力があるからだ。
(これを「クリック力」と呼ぼう。本当は「クリック刺激力/クリック誘因力」なのだが、略した方が言いやすい。)
そして美人にはクリック力のみならず、実際の選挙で投票を促す効果もあるようだ。
政治家の娘でもなく地盤も何もない女性が政治家を志すのなら、まず何らかの形で世に出なければならない――
そのためには、(全てのケースがそうではないにしても)標準以上の美人でなくてはならない。
もしブスであれば、出馬した瞬間に大衆の嘲笑に晒されかねない。
これはまた、何という高いハードルだろう。
むろん過去の時代も美人であることは、女性が世に出て高い地位に至る必須条件だったかもしれない。
中国史には歴史に残る悪女や女性権力者が腐るほど出てきているが、その彼女らも元はと言えば「美人だから後宮に入り、そこで皇帝に見初められ子どもを産んで権勢を振るった」というパターンが大半である。
今の日本人ですら多くがピンとくる悪女と言えば清朝末期の「西太后(せいたいごう)」だが、恐ろしい権力老婆のイメージのある彼女にしても、若い頃はむろん美少女だったのである。だから後宮に入って「世に出る」ことができたのである。
しかしこの現代、美醜の差は、かつての女性たちよりはるかに大きな差を女性の間にもたらしていると言ってよかろう。
今の女性の職業選択は自由であるが、事実上美人でなければ就けない職業(それは同時に、女性が就きたい職業でもある)が、どれほど多くあることだろう。
ひょっとしたらピアニストやアスリートでさえ、美人でなければなれないのではないか――
いや、なれるにしても大成できないのではないか。(この場合の大成とは、社会的・芸能人的成功を収めることである。それが政治家への道に繋がることもとても多い。)
蓮舫と小池百合子の登極は、日本における美人資本主義がいよいよ佳境に入っていることの表れとも取れる。
日本にもいつか女性宰相や経団連会長、その他諸々の女性指導者が次々現れることだろう。
そしてそのほぼ全員が「美人出身者」であるだろうことは、ほとんど疑いないことに思える。