プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

社会、ニュース、歴史、その他について日々思うことを書いていきます。【プロレス・格闘技編】はリンクからどうぞ。

JR西日本、大赤字ローカル線収支を初公表-「国鉄復活」の奇手

 4月11日、JR西日本は「路線維持が困難」な30区間の収支状況を、初めて公開した。

 その全てが赤字であるのは当然だが、営業損益で最大の赤字なのは山陰線の出雲市~益田の区間で、営業赤字は34.5億円、収支率は22.4%(2017-2019年度の平均)だという。
 
 壊滅的というか、もはやどうしようもない数字である。

(⇒ 関テレ ニュースRUNNER 2022年4月11日記事:JR西日本 路線維持困難なローカル線の州牛を初校ひょ30区間全て赤字 沿線自治体への波紋は必至)

 ところで非地元民にしてみれば、出雲市益田市を結ぶ鉄道と言えば、それなりに乗客がいるのではないかと感じてしまう。

 しかしその実態はこのとおりなので、どうも我々は出雲大社という知らぬ者のないネームバリューを持つ出雲市、そして島根県の「市」というものの実力を、まだまだ過大評価しているのかもしれない……


 それはともかく、引用記事タイトルには「沿線自治体への波紋は必至」とある。

 もちろんJR西日本としては、こんな赤字垂れ流し路線は今すぐにでも廃止したい。

 しかし沿線自治体はそんなことされては(たぶん)壊滅的に困るので、「地方切り捨てだ」ととにかく反発し路線の維持を強く求める……

 というのが、当然そう予想されるし実際そうなっている、お決まりのパターンである。

 とはいえ実際のところ、こういう自治体の(そして地元住民の)声を、日本国民の大多数は冷ややかな目で見ているはずだ。

 こんな赤字部門を廃止し切り捨てるのは、民間企業として当然のことである。

 それは現代日本人にとって、道徳とすら呼べる当たり前の思考である。

 そう――

 思えば国鉄が民営化されたときから、こうなることはわかったことであった。

 民間企業なら、不採算部門は切って捨てるのがほぼ100%正しいと言える。

 それが嫌なら、つまり鉄道というものを全国どこでも走らせるユニバーサルサービスみたいにしておきたかったなら、国鉄を民営化すべきではなかった。

 しかしそんなことはわかった上で(わからなかった、なんてことがあるだろうか?)民営化に賛成したのは、日本国民自身なのだった。


 さてしかし、今さらJRを再国営化するなんてできるはずがない。

 そうなると残るのは、国にJR不採算路線の赤字補填を求める手しかないだろう。

 もう沿線自治体は、その陳情に走るしかないのではないか。

 またJRだって、国に対して「路線維持すべきだと言うなら国が補助金を出してくれませんか」と正式に申し入れたくてたまらないだろう。

 これにはある程度の正当性があって――

 それは、「赤字になるとわかってて、民間企業がとてもやれないこと」をやることこそが国のなすべきことだ、という理屈である。

 言い換えれば、「採算が取れないけど必要(だと言われている)だからこそ国がやる、カネを出す」ということになる。

 これは、特に水道事業で「民営化への疑問・反発、再公営化」の声が大きくなっている今、なかなか説得力を増してきている理屈ではないかと思う。

 むろん国は(財務省は)そんなカネはありません、と言うに決まっている。

 また多くの国民も、地元民が乗らないから廃止になるんだろうと、冷めた目で見るには決まっている。

 だが今なら、今からなら、そういう声と拮抗するくらいの声を地元自治体・地元民は上げることができそうではある。

 赤字路線の(補助金による)実質的な国鉄復活は、あり得ない話ではないと思うのだが……

 

映画監督らの性的加害、続々露見-人は誰でも圧制者になる

 映画監督の園子温(その しおん)氏(60歳)、榊(さかき)英雄 氏(51歳)、俳優の木下ほうか 氏(58歳)の、「自身の監督・出演作品における出演女優らへの性的加害」が報じられる中――

 今度は「有名映画プロデューサー」の梅川治男 氏(61歳)もまた女優への性的加害(性的写真を要求するメールを送りつける)を行っていた、と報じられた。

(⇒ 文春オンライン 2022年4月6日記事:「園子温監督の右腕」有名プロデューサーが女優に性的写真要求メール)

 こういう話は、興行界ではよくある話のようでもある。

 何となく誰でも、興行界ではこういうことが割と普通に行われているのだろう、と思っているのではないだろうか。

 それでもこのSNS社会の中、まだこんなことが割と普通に行われているのだとすれば、映画界は我々の想像以上に前時代的なのだということなのだろう。

 
 ところで私は、この人たちの才能をウンヌンするほどこの人たちの作品を見ていない。

 と言うか率直なところ、「誰この人?」と思うレベルである。

 しかしそれでもハッキリ言えるのは、「才能と人格は関係ない」ということである。

 物理学の天才だろうと戦略の天才だろうと、

 歴史的な画家であろうと彫刻家であろうと、

 それはただ「才能を持って生まれた一般人・ただの人」に他ならない。

 もちろん映画監督も俳優も、「映画を撮るのが上手い一般人」「演技するのが上手い一般人」というだけである。

 一般人は、「自分はコイツより『上』にある」と思いさえすれば、相当に横暴・残酷なことができるものだ。

 その意味で、やっぱり今回の性的加害の連鎖発覚というのは、彼らがただの一般人であることを余すところなく立証している。

 
 ところで、私はいつも思うのだが――

 古代ローマ帝国には、ネロだのカリギュラだのといった「アタマのおかしい」皇帝たちがこれでもかと出現したものだ。

 しかし、現代に生きる日本人でも、もし古代ローマで皇帝になっていたならば、同じくらいアタマのおかしい皇帝として歴史に名を残した人はものすごく多くいるのではないか。

 今回の監督連や俳優連もそうだし、
 
 なんならそれを批判する一般人にも、

 そういう立場に生まれてさえいれば(そういう立場になりさえすれば)暴君や小独裁者になっていそうな人は、あなたの身近にもいくらでもいそうではないか?

 そして実際、今の世の中にもあちこちに「狭い世界の王」「小独裁者」は繁茂しているような気がする。

 そして、今の世でさえそうであるならば――

 間違いなくその人たちは昔の権力者に生まれていれば、革命戦争で殺されるべき暴君であったことだろう。

 そう思うと、「人は誰でも圧制者になる」というのが、絶対とは言わないが世の中の真理の一つなのだろう。

 

ウィル・スミス、妻への侮辱にビンタ一閃-世には「共感される暴力」がある

 3月27日、第94回アカデミー賞の会場で――

 主演男優賞にノミネートされたウィル・スミスが、プレゼンターである「コメディアン」クリス・ロックという人に平手打ちを食らわした。

 同席したスミスの妻が脱毛症で悩んでいるというのに、それを「GIジェーン“2”ですね!」とからかわれ、激怒したものだという。

 当然ながら、会場は静まりかえった。

 なおスミスはその直後に主演男優賞を受賞し、そのスピーチで「アカデミーに謝りたい。賞の候補者全員に謝りたい」と謝罪したとのこと。

(⇒ ロイター 2022年3月28日記事:W・スミスがプレゼンターに平手打ち、侮辱に激怒 米アカデミー賞)

  さて、このビンタされたクリス・ロックというコメディアンについて、私は何一つ知らない。

 これは日本人ならほとんど誰でもそうであって、たいていの日本人はアメリカ芸能界のことなど何一つ知らないのが普通だろう。

(これは、コメディアンやお笑い芸人、いや芸能界というもの自体が、世界的に見れば意外とローカル産業であることを示しているのかもしれない。)


 しかしどうやらこの人には「前科」があるようで、2016年には受賞者全員が白人だったことをからかう一方、アジア人への差別的見方をも示したことがあったという。

 ここで不思議なのは、そういう前科があって「髪のない女性をGIジェーンだとからかう」といういわゆる「容姿イジリ」をする人を、なぜ「人種差別とあらゆる差別に絶対反対」を掲げる米アカデミー賞はわざわざプレゼンターに起用するのか、ということである。

tairanaritoshi-2.hatenablog.com

 

 もしかして、とは思うのだが、これはクリス・ロックが黒人だからなのだろうか。

 黒人にはまだ、こんな「芸風」のコメディアンとして活躍できる余地が残されているのだろうか。

 私にはこれ、とても白人コメディアンが採用して生きていける芸風ではないという気がするのだが。

(そして今回の件は、人種的に見れば「黒人が黒人をビンタした」ということになる。)


 それにしてもアメリカと言えば、世界一「差別に厳しい」国であるはずで――

 時にそれは、病的だとされるほどだと言われる。

 そのアメリカにして、まだ「容姿イジリ」や「アジア人差別(暗示)トーク」を芸風として生きていける……
 
 それどころかアカデミー賞のプレゼンターに呼ばれるほど活躍できるコメディアンがいるというのは、なんだかますますアメリカという国がわからなくなってくるではないか。


 そしてもう一つ――

 今回のウィル・スミスのビンタに対する世間の(少なくともネットの)反応は、これこそまさに「共感の嵐」とメディアが書くべき様子ではなかろうか。

 これで我々には、心にメモすることが一つできたわけだ。

 つまり世の中には、

「素晴らしい暴力」

「絶賛される暴力」

「容認される暴力」

「無理もない暴力」

「株を上げる暴力」

「当然の暴力」

「愛と正義の暴力」

 がある、ということである。

 もちろんウィル・スミスには、この後のスピーチで「言論をもって」プレゼンターへの怒りを表明することもできたろう。

 しかしスミスが受賞するとはわからなかったのであるから、後でスピーチすればいいということにもならない。

 いや、何よりもスミスがそんな判断をすること自体が、平手打ち暴力を決行することよりはるかに人々の共感を呼ばないに違いない。

 そして誰よりもスミスの妻は、夫が平手打ちを決行したこと(それもアカデミー賞の場で)以上の感激を、スミスが言論で反撃することで得ることができるだろうか。

 私が妻だったら、こういうとき夫が暴力に訴えてくれることほど感激することはないだろう。

 
 教訓――

 人間には、暴力を振るうべき時がある。

 この世には、「正しい暴力」が存在する。

 どんな暴力にも絶対反対だという人は、これにどう反論すべきだろうか。

 それにはまず何よりも、こんなことをしたウィル・スミスを指弾しなければならないわけだが――

 それは非常に、極めて難しいことではなかろうか。