プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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大分こども園襲撃事件-「世間を騒がせたい」というむなしき願望

 3月31日15時25分頃、大分県宇佐市四日市にある「四日市(認定)こども園」に――

 近所の射場健太(いば けんた)32歳が、フルフェイスマスクをかぶりサバイバルナイフ(刃渡り20センチ程度)と竹刀を持って叫び声を上げながら園内に侵入した。

 保育士の女性2人(70歳と41歳)が額や手の甲を切られた他、小学3年生の男児9歳が竹刀で顔を殴られ頬に打撲を負ったが、いずれも軽傷。

 射場健太は園外に出て逃走中、自宅民家の前に停車していた車(人が3人乗っていた)を襲撃してカギを奪い、その家を物色したが、約10分後、路上で宇佐署員に逮捕された。

 射場健太は自宅で両親と暮らしていたがひきこもりで、もちろん現在も無職。

 犯行の動機は、「自暴自棄になって世間を騒がせたかったから」と供述しているらしい。


 こういう事件があるといつも感じるのは、この人たちの独創性のなさである。

 彼らが襲うのは決まって小学校とか幼い子どもで、ヤクザの事務所や警察署はおろか、高校にさえ襲撃をもくろんだという話は聞かない。

 これにはたぶん、“幼い子どもなら自分でも殺せる(んじゃないか)”との哀しい自信あるいは計画性のようなものがあるのだろう。

(だから、街中で無差別に通り魔をやる人よりは、はるかに「計画的」な犯行である。

 とても狂気や心神喪失を主張できるようなものではない。)


 そしてもう一つ感じるのは、彼らの「世間を騒がせたい」という切なる想いは、もはや叶えられる時代ではなくなったことだ。

 今回は幸い死者は出なかったが、たとえ3人殺していても、それが1ヶ月ももつ話題になったか疑わしい。

 いや、2週間ももてば御の字だろう。

 世間でも世界でも毎日毎日新しいニュースが生まれており、とても一つの単発的な事件にかかずりあっているヒマはない。

 しかもこの射場健太という人、刃渡り20センチのナイフを持っていながら、女こどもばかりを相手に一人も殺せなかったのである。

 おそらく彼には、殺害をやりきる覚悟はできていなかったのだろう。

 竹刀などという殺害用では全くない道具を手に持って行ったことからも、どこか切羽詰まった真剣さというものが感じられない。

 これは昔の武士なら、「武道不覚悟」と指弾され嘲笑されたことである。


 「ダメな奴は何やってもダメ」というか――しかしたとえ数人殺したところで、やっぱり速やかに忘れ去られる。

 自分の生きていた証を残したい犯罪者にとって、今は非常に生きづらい時代だ。

 そういう彼らが名を残すには、やはり新機軸の襲撃を行なうに如くはない。

 たとえば暴力組の本部や組の葬儀に特攻して組員らを殺害すれば、凡百の「こども襲撃事件」より、ずっと犯罪年代記に名を残す可能性が高くなる。

 ひょっとすれば、世の絶賛を博すかもしれない。

(しかしメディアは、あまり報道してくれない気もするが……)

 それにしても「こども襲撃犯」という肩書きは、もはや怒りや恐怖より「情けなさ」の方をより強く感じるくらい、価値が下落しているようだ――

谷査恵子さんに見る「働いたら負け」と「貧乏クジを引く」

 連日報道されている森友学園問題だが――

 本件で一躍「最も気の毒な人」になったのは、経済産業省の女性官僚(ただしノンキャリア)・谷査恵子(たに さえこ)さんだろう。

 彼女は1998年に経産省へ入省したのだが、2013年から2015年末まで、何の因果か「内閣総理大臣夫人付」として安倍首相夫人・昭恵氏の下へ出向していた。(2016年から現在までは、中小企業庁の経営支援部で連携推進専門官になっているそうだ。)

 なお昭恵夫人の下には、経産省と外務省から計5人の国家公務員が秘書として派遣されているとのこと。

 私は浅学のゆえ知らないのだが、総理大臣の妻や子に警護官(SP)が付くのは当然として、秘書が付くというのは当たり前のことなのだろうか?

 谷さんは、森友学園の陳情に対して、「大変恐縮ながら現状ではご希望に沿うことはできません。なお、本件は昭恵夫人にも報告させていただいております」とのFAXを送ったことで話題になっている。 

 もちろん政府としては、これはあくまで谷さんが私的に(勝手に)送ったものだということにしたい。

 そして昭恵夫人はあくまで「公人」でなく「私人」ということにしたい。

 しかし国家公務員が「出向」で5人も付いているとなれば、これはもう、どう解釈したって私人と言えるわけがない。

 昭恵夫人森友学園の経営する塚本幼稚園に公園に行った際、例の5人の秘書役(のうちの数人?)が同行していたが、その出張費は昭恵夫人が負担しており、彼らは「あくまで私的に、勤務時間外で同行していた」と政府側は答弁している。

 だが、普通に会社で勤務している人なら、むろんこんなのが純粋に自由意志での自由参加だとは思うわけがないだろう。

 表向きは自由参加でボランティアだとしても、実際は強制であり職務命令なのである。

 そういうことが世の中にありふれているのは、就職一年生でも知っていることだ。

 そして当然、谷さんが森友学園に送ったFAXというのも、一個人としてやったのであるわけがなく――

 陳情処理業務という「本業の仕事」の一環でやったに決まっているではないか?


 それにしてもこの秘書役の5人、「総理」ではなく「総理の妻」の秘書として出向してくれと言われたとき、どんな思いがしたのだろうか。

 もし「私人の」総理夫人に秘書が必要だとするなら、それは自分で給料を払って雇えとか党費で雇えと思うのが、まともな神経の人間というものだろう。

 あなたが会社勤めのサラリーマンやOLだとして、社長ではなく役員でもない(ということになっている)、社長の妻の秘書役になってくれと言われる……

 「そんなのやりたいわけねーだろバーカ!」と心の声が必ず聞こえてくるはずである。

 それが名誉だと思う人など極めて珍しいはずである。

 しかしそれでも、あなたをはじめとする宮仕えの人たちは、それを断ることができない。(あなたは断れますか?)

 それは俗な言い方をすれば、「キンタマを握られている」からである。

 そして陳情業務で返事を送れば送ったで、今回のように悪者にされヘマをやったと見なされ、社長には激怒されることになる。
 
(谷さんは安倍首相に呼び出され怒鳴りつけられたと言われている。また、国外へ左遷=島流しにされるのではないかとも言われている。)

 ああ、何という悲哀だろう。

 「働いたら負け」というのは、またしても真であることが証明されたのではないだろうか。


 谷さんは貧乏クジを引いた人である。

 行きたくもない部署に回され、そこでごく普通に(あるいは熱心に)働いたあげく、このような仕儀になってしまった。

 次に貧乏クジを引くのは、どこの誰か。

 それは、あなたなのかもしれませんよ…… 

「鎖国」と「聖徳太子」の復活-歴史学者の功名心について

 文部科学省は今年2月、中学校社会の次期学習指導要領(2021年度導入)において――
 
 従来の「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」とし、「鎖国」は「幕府の対外政策」と変更することを公表していた。

 しかし今月末に告示予定の最終版では、これらを元に戻す(変更しない)方向で検討しているとのことだ。

 変更しようとした理由は「最近の歴史研究成果を反映させたため」で、変更しないこととした理由は「一般からの意見公募で、わかりづらい/教えづらいとの意見が多かったため」らしい。

 これだけ見ると即興的に思うのは、「悪しき民主主義に迎合した」という感想である。

 歴史研究も科学も、多数決で決まるのではない。一般庶民にわかりにくいからと言って真実を曲げて教えるのは、衆愚政に他ならない――

 と反射的に思いたくなるような話である。

 しかしこれについて私は、やっぱり「変更しない」方がよいと思っている。

 もっと正確に言うと、変更すべきだという声の方が“ウサン臭い”と感じている。

 
 まず聖徳太子については、そもそも「聖徳太子非実在説」というのがある。

 聖徳太子だろうと厩戸皇子だろうと、まさにそういう一個人が架空の存在だという説である。

 しかしさすがに、これは定説とまでは行っていない――ではなぜ「聖徳太子」と呼ぶのが間違いなのかといえば、彼の生前にはそう呼ばれていなかったからだという。

 なんだか納得しがたい話だ。

 生前にそう呼ばれていなかったからダメだというなら、歴代天皇名だって全部そうである。

 我々は歴史教科書で「昭和天皇」と呼ばず「裕仁天皇」と呼ぶべきだろうか。

 後鳥羽上皇はもちろん生前は後鳥羽なんて名(これは、死後の諡(おくりな)だ)で呼ばれていなかったのだから、何と呼べばいいのだろう。

 そして“正しい名”で呼ぶべきだというのなら、スターリンもレーニンも本名で教科書に書くべき(と、主張すべき)ではなかろうか。

(この2人の本名については、ウィキペディア参照のこと。)


 そして「鎖国」についてだが――

 「江戸時代は決して鎖国じゃなかった、長崎などを通じて確かに世界に窓は開かれていた、江戸時代の人間に国を鎖(とざ)してるという意識はなく、強いて言えば“海禁政策”だった」

 などと表紙やオビに書いてある本がゴマンと出ているのは、みなさんもご存じのとおり。

 しかしみなさん、そういう話を聞いても読んでも、こう思わなかったろうか――「だから、それを鎖国と言うんじゃないのか」と。

 私もやはり例に漏れず、「いや、これ、閉ざしてるだろ」と思った人間である。

 長崎だけで限られた国だけに貿易を許し、しかも日本人の海外渡航・海外からの帰国は禁止する。

 これは「国を鎖す」という表現がピッタリであるし、素晴らしい表現であるし、そうとしか言いようがないんじゃないかと思っている。


 そしてついでに、もう一つ。

 鎌倉幕府の成立が、今は1192年(いい国つくろう鎌倉幕府)でなく1185年(いい箱つくろう鎌倉幕府)とされていることについてだが、これも非常に疑わしい“新しい常識”だと感じる。

 1192年が鎌倉幕府成立の年とされてきたのは、その年に源頼朝征夷大将軍に任命されたためである。

 それが1185年になったのは、その年に頼朝が全国への守護・地頭の設置権を得たため――

 つまり“実質的に”幕府が成立したからその年の方が相応しい、というのが歴史学の中で通説になったかららしい。

 そこで誰でも不思議に思うのは、では江戸幕府の成立年はいつなのかという話だ。

 江戸幕府の成立年は、いまだ1603年とされている。それは徳川家康征夷大将軍に就任した年である。

 しかし征夷大将軍への任命は「形式」で、「実質」の方が大事というなら、江戸幕府が実質的に成立したのは1600年(家康が関ヶ原の戦いで勝利)になるのではないか?

 いやいや逆に、家康が豊臣家を滅ぼした1614年(大坂夏の陣)に繰り下がるのではないか?

 私にはやはり、守護・地頭の設置なんかより、頼朝の征夷大将軍就任の方がはるかに歴史的意義が大きい――

 よって鎌倉幕府の成立年は1192年であるべきだと思っている。

 頼朝は別に征夷大将軍を望んだわけではなかったらしいが、そして将軍就任で新時代が開いたという意識はなかったかもしれないが、以後“征夷大将軍になった者が幕府の創始者とされる”前例を開いた意義は、ものすごく大きい。

(だいたい今の我々も、「征夷大将軍になった者の子孫が継ぐ世襲政権」のことを「幕府」と呼び、それに何の疑問もないのだから。)

 
 しかし、では、なんでこのような「常識」が歴史学会では誤りとされ、修正すべきだと言われているのだろうか。

 これは、少なからぬ人数が思っていることと思うが……

 そこには、歴史学者の功名心が絡んでいるのではないだろうか?

 というのも、「常識」や「通説」に沿った解説書・研究論文を書いていても、名は上げられないからである。

 名を上げようと思うなら、名を残そうと思うなら、(何十冊もの本のオビに書いてあるように)「通説を覆す!」ことしかない――あるいは手っ取り早いからである。

 通説を否定する論は、学会ではともかく商業本にすればウケる(売れる)ものである。

 そもそもそういう本でないと、出版社は商業出版しようと思わない可能性が多分にある。

 本が売れれば知名度が上がり、知名度が上がるということは現代では権威が増すことを意味する。

 そして権威が上がれば、やっぱり学会でも威信が増すのではなかろうか。

 これにより、学会での地位の向上が見込めるのではないだろうか。

 学会という世界でのヒエラルキーは、(たぶん)学校や会社でのそれよりはるかに硬直的なものなのだろう。

 普通に研究活動していては、上にのし上がるのはかなり難しいことなのだろう。

 言ってみれば「下克上」を狙い、初めから通説に反する/否定する研究をしてやろうともくろむのは、人間として自然な感情だと思うのである。 


 確かに、通説を追認するだけでは学問の進歩はない。(だいいち、やっている本人自身が面白くない。) 
  
 しかし我々は、「通説を覆す」とウリ文句の書いてある本を見るとき――

「そんなにしょっちゅう通説を覆すようなことがあるのか」と疑ってかかるべきかもしれない。

 それは超常現象をまるきり否定はしないが、そんなにしょっちゅう超常現象が起こっているとは容易に納得しないのと同じ態度である。

 なんだか「通説を覆す」本を読むたびに「そうだ」と得心するのは、UFO本に書いてあることを全て「そうだ、本当にあったんだ」と感じるのと同じようなことの気がする。

 さて、江戸幕府のはじまりが「1600年」とされる日はやってくるだろうか?

 そういう主張をする歴史学者が出てこないなら、鎌倉幕府に対する態度と明らかに矛盾していると思うのだが……

(もっとも、「幕府のできた年」などというものはない、そんなのを決めようとするのはナンセンス、という学者は何人もいそうだが……)