東京都渋谷区は、「スタディクーポン・イニシアティブ」と組んで「塾や通信教育の費用にあてられるスタディクーポン」を同区に住む(低所得世帯の)中学3年生に提供する事業を来年4月から始めるそうである。
そのため、ネット上でも寄付(クラウドファンディング)を募るらしい。
私はこれを間違った取り組みであるとも悪いこととも思わないが――
しかし「本末転倒」ではないか、との思いも決して拭えない。
これって要するに、「塾に行くのはもはやスタンダードである、望めば当然叶えられるべきことである」という前提に立っての話である。
「塾に行くのはフツーの人間の当然のたしなみ」であり、それが経済的理由でできない場合は公が救うべきだという考えである。
果たして塾に行くというのは、子どもとその親の「基本的学習権・基本的人権」なのだろうか。
それを言うなら「スマホを持つこと」さらには「iPhoneを持つこと」も基本的人権であり、公費でまかなって然るべきということにならないか?
※あなたが男性なら、時々「つくづく女に生まれなくて良かった」と感じることがあるだろう。
上記記事を読んだときなど、特にそういう気持ちになるのではないだろうか。
そしてこういう取り組みを民間NPOが独力でやるのではなく、渋谷区という公の機関そのものが主導するということは――
とりもなおさず、「学校だけでは基本的学習権(学習環境)を満たせない」と認めているのと同じである。
もっとはっきり言うと、「学校の授業だけでは(程度の良い)高校の入試水準に届かせることができない」と認めているのと同じである。
ここで万人が不思議に思うのは、「じゃあ、なぜ学校でそれだけの授業をしないのか。昔からいつまで経ってもしないのか」という点である。
もちろんそこには、「国の定めた学習指導要領を超える内容の授業はできない」という“制約”が一因としてあるだろう。
しかし根本的な原因は、もう国民一般の中に「受験するなら塾に行くのがスタンダード(当たり前)」という雰囲気が浸透していることにあると思われる。
考えてみれば別に塾に行かなくても、「本人に意欲さえあれば」、書店に山のように積まれ広げられている参考書・問題集をやりまくって勉強すればいいのである。
それができないということは、本人にさほどの意欲がないということに他ならない(と、私は思う)。
「いやいや、やっぱり独学では限界がある。やっぱり誰かに教えてもらわなくては――」と言うのであれば、やっぱり「じゃあ何で学校がそれをしないのか(できないのか)」という問題に戻ってくる。
そしてその答えは、とっくに出ているし明々白々だと私は思う。
すなわち「学校が授業に集中しないから」である。「受験勉強に集中していないから」である。
「学校の教師の“勉強を教える”質は、塾の講師に劣る」――
これもまた、大部分の国民が共有している意識だろう。
しかしその原因は、決して人間の質や能力が(全体的に)劣っているからではない。
それはひとえに、学校の先生が「勉強を教えること」に集中できていないからである。
このブログでも何度か書いてきたが、学校教師に「部活」だの「生活指導」だの兼任させるのは本当に愚の骨頂である。
塾の講師はそんな“無駄”なこと一切しなくて良いのだから、それは授業の「質が高い」のは当然すぎるほど当然のことだ。
こんなことはどんなバカタレにでもわかる話だと思うのだが――
それでもなお不思議なことに、「学校は授業・勉強に集中すべきだ。他は切り捨てろ」という意見は大多数を占めることがない。
部活廃止論は今でこそ盛り上がりかけてはいるが、とても国民過半数の賛同を得ているとは言えまい。
しかし「他の色々な無駄なこと」は切り捨てて「勉強に(受験勉強に)集中」しない限り――
「学校に加えて塾に行くのが当たり前のこと、公費で支援すべきこと」なんていう倒錯はいつまでも続くことだろう。
私は外国の教育制度のことなどほとんど知らないが、こういう“倒錯した善意”(と、あえて言う)が行われる国って、他にいくつあるのだろうか?