プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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銃剣道は役に立たないのか? 実戦性がないのか?

 新潟県知事の米山隆一氏は、

 言わずもがなですが日本で「銃剣」を所持することはできません。
 銃剣術を習っても護身に用いることは不可能ですし棒を使った護身術なら剣道が上です。
 習った後競技を続けられる人も極めて限定されます。
 当然ですが近代戦において何の役にも立ちません。
 戦前精神論への郷愁以外のいったい何でしょうか?

 という。

 社会的にも戦争においても銃剣は役立たずで、護身術としては剣道の方が上だという。

 私は剣道も銃剣道もやったことがないが、護身術として剣道の方が銃剣道より上だというのは、正直噴飯物の話だと思う。

 なるほど近代戦においては、銃剣というものは役に立たないとされている。

 それが役立つのは鉄条網を切ったり缶詰を開けたりするときで、むろんその時は銃から剣を外し、剣をナイフとして使うのだとされる。

 しかし実戦性というなら、剣道には何の実戦性があるというのだろう。

 言わずもがなだが、日本で「剣」を持ち歩くことはできない。

 そして竹刀を持ち歩くこともない。(剥き身の竹刀を日常で持ち歩く人は、異常者である。)

 それは傘やステッキで代用できるというならば、銃剣道だって同じである。

(ただし意外なことに、剣道の竹刀は銃剣道の木銃よりずっと短い。

 銃剣道の木銃は中学生以上なら長さ166cm&重さ1,100グラム以上、小学生以下は133.5cm&800グラム以上のものを使うよう決められているのに対し、剣道の竹刀は成人なら120cm程度である。

 傘やステッキなど日常で持ち歩く/手に入る棒としては、確かに剣道の竹刀の方に分がある。)
 

 しかし銃剣道の優れた点は、それが「突く」という攻撃方法に特化しているということだ。

 私見では銃剣道は、実質的には「棒術・槍術」の一種である。(「突き棒術」とでも言おうか。)

 そこには実戦における「斬りかかる/打ち下ろす」などという無駄がない。

 そう、我々の先祖が日本刀で“斬り合って”いた時代でも、日本刀の真の使われ方というのは、斬り殺すより突き殺すことにあったのではないか?

 おそらく護身術としては米山知事の言とは逆に、銃剣道の方が剣道よりはるかに実戦的であることだろう。

 面だの小手だの多種多様な打ちかかり方を練習する必要はなく、ただ突くことだけを目指せばいい――

 これはその覚えやすさ・訓練しやすさという点で、弓と鉄砲の関係にも似ている。

(弓は習熟するのに長い訓練がいるが、鉄砲はそうでもない。それが鉄砲が弓を駆逐した一因だというのは、軍事史の本でよく見かける記述である。)


 中学部道の選択肢である柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道少林寺拳法なぎなた銃剣道のうち――

 「道具」「武器」を使うのは、剣道、弓道なぎなた銃剣道の4つ。

 この中でどれが一番実戦性があるか、すなわちストリートファイトで使えるか(現代の「実戦」とはそういう意味だろう)と問われれば、弓道は問題外として、疑いなく銃剣道だということになるのではないか?

 そしてまた、これまでの記述でわかるとおり、しょせん武道というものは全て、人殺しの道具や手段なのである。

 なぎなたをやってる女の子はかっこいいと言ったって、なぎなたが人殺しの道具であることはわかりきった話である。

 剣も弓も同じことなのは当然である。

 しかし米山知事は、間違っても「剣道・弓道なぎなたをやるのは時代錯誤。そんなのは実戦で何の役にも立たない。そんなのを子どもたちがやることに恐怖を覚える」とはツイッターに書き込むまい。

 なぜか?

 それはもちろん、変人と思われたくないからである。

 剣道や弓道は競技人口が多く、その反発を恐れずにいられないからである。

 しかし銃剣道なら、前記事「(5)競技人口が少なすぎる」のとおり、時代錯誤とか恐怖を覚えるとか言ったって反発は知れている。

 そういうマイナー競技に対してなら、柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道少林寺拳法なぎなたに対しては決して言わない(言えない)ことが言えるのである。

(そして米山知事は、「合気道ってホントに実戦性あんの?」という格闘技ファンの抱く長年の疑問も、決して口に出さないだろう。)

銃剣道の中学武道「追加」、国体毎年実施昇格について

 3月8日、日本体育協会は、2023年から4年間の国民体育大会(国体)の実施競技を決めた。

 その中で銃剣道」が従来の隔年実施から毎年実施に昇格し、逆にボクシングは毎年実施から隔年実施に降格している。

 なんでも競技ごとにジュニア世代の充実度や競技団体のガバナンス(運営ぶり)など6項目を点数化し、その合計点に基づいて決めたそうである。

(よく知らないがボクシングって、ジュニア世代の充実やガバナンスの確立が劣っているのだろうか……?)


 そして文部科学省は3月31日の官報で、小中学校の新学習指導要領と幼稚園の新教育要領を告示。

 ここで中学校の武道科目に「学校や地域の実態に応じて種目が選択できるよう」にとして、新たに「銃剣道」を選択肢として追加した――

 と言われているのだが、本当は従来の学習指導要領で言う「武道」とは、日本武道協議会なる団体が正式採用している9種目――

 柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道少林寺拳法なぎなた銃剣道

 の9種目を指しているとのこと。

 つまりもともと学習指導要領には、中学武道の選択肢として銃剣道も入っていたのだが、新学習指導要領では削除されかかっていたらしい。

 それがやっぱり削除されずに生き残ったことが、「新規追加」と報道されているようだ。

(ただ、今まで指導要領の解説だけに記載されていたのが、本文記載に「昇格」したのは事実である。)


 さて案の定、「銃剣道が中学武道に追加」と報道されると、世の中ではたちまち拒絶反応が発生した。

 もちろんそれは銃剣というものが旧日本軍を即座に連想させるからであり、忌まわしき軍国主義の復活(の企み)と直結してしまうからである。

 これはもうこのニュースを聞いた100%の人が、そう直感したのではないか。

 そして銃剣道の追加を支持する人は、そう直感した後で「いやいや、そんなことはない」と脳内で意識的に意識を切り替えようとしたのではないか。

 その拒絶反応の中で代表的なのは、新潟県知事の米山隆一氏のツイッターである。

 

米山 隆一 @RyuichiYoneyama
2017-03-31 06:14:25
 新学習指導要領で選択制とはいえ中学校の武道に「銃剣道」が入るとの事です。
 私は反対です。
 柔道、剣道、相撲はルールも整備され、競技人口も多くスポーツとして確立していますが、銃剣道はその状況になく時代錯誤としか言えません。恐怖を覚えます。

米山 隆一 @RyuichiYoneyama
2017-03-31 07:47:09
 言わずもがなですが日本で「銃剣」を所持することはできません。
 銃剣術を習っても護身に用いることは不可能ですし棒を使った護身術なら剣道が上です。
 習った後競技を続けられる人も極めて限定されます。
 当然ですが近代戦において何の役にも立ちません。
 戦前精神論への郷愁以外のいったい何でしょうか?

 
 銃剣道への拒絶反応は、おおむね次のとおりまとめられるだろう。

(1)それは軍国主義、戦前回帰、右翼的である。

(2)それは人殺しの訓練である。子どもにやらせるなどとんでもない。

(3)銃剣道は役に立たない。(実戦性がない)

(4)そもそも武道ではない。

(5)競技人口が少なすぎる。


 まず(5)だが、日本銃剣道連盟によると、いま日本で銃剣道に取り組んでいる中学校は、神奈川県に1校しかないらしい。

 そして銃剣道を教えられる教員は、全国にたったの10名程度。

 確かに柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道少林寺拳法なぎなたの他8種目に比べれば、人員体制も世間的知名度も圧倒的に劣っている。

(私としては、全国に10人も教えられる教員がいるということの方が驚きだ。)

 よって、他8種目をやっている人から言わせれば、(4)そもそもあんなのは武道のうちに入らないだろう、一緒にしてくれるな――

 と思われているのかもしれない。

 しかしもちろん、(4)(5)だからといって銃剣道への拒絶反応が生じているのではない。

 その主たる部分は(1)~(3)にあるのは言うまでもない。

大分こども園襲撃事件-「世間を騒がせたい」というむなしき願望

 3月31日15時25分頃、大分県宇佐市四日市にある「四日市(認定)こども園」に――

 近所の射場健太(いば けんた)32歳が、フルフェイスマスクをかぶりサバイバルナイフ(刃渡り20センチ程度)と竹刀を持って叫び声を上げながら園内に侵入した。

 保育士の女性2人(70歳と41歳)が額や手の甲を切られた他、小学3年生の男児9歳が竹刀で顔を殴られ頬に打撲を負ったが、いずれも軽傷。

 射場健太は園外に出て逃走中、自宅民家の前に停車していた車(人が3人乗っていた)を襲撃してカギを奪い、その家を物色したが、約10分後、路上で宇佐署員に逮捕された。

 射場健太は自宅で両親と暮らしていたがひきこもりで、もちろん現在も無職。

 犯行の動機は、「自暴自棄になって世間を騒がせたかったから」と供述しているらしい。


 こういう事件があるといつも感じるのは、この人たちの独創性のなさである。

 彼らが襲うのは決まって小学校とか幼い子どもで、ヤクザの事務所や警察署はおろか、高校にさえ襲撃をもくろんだという話は聞かない。

 これにはたぶん、“幼い子どもなら自分でも殺せる(んじゃないか)”との哀しい自信あるいは計画性のようなものがあるのだろう。

(だから、街中で無差別に通り魔をやる人よりは、はるかに「計画的」な犯行である。

 とても狂気や心神喪失を主張できるようなものではない。)


 そしてもう一つ感じるのは、彼らの「世間を騒がせたい」という切なる想いは、もはや叶えられる時代ではなくなったことだ。

 今回は幸い死者は出なかったが、たとえ3人殺していても、それが1ヶ月ももつ話題になったか疑わしい。

 いや、2週間ももてば御の字だろう。

 世間でも世界でも毎日毎日新しいニュースが生まれており、とても一つの単発的な事件にかかずりあっているヒマはない。

 しかもこの射場健太という人、刃渡り20センチのナイフを持っていながら、女こどもばかりを相手に一人も殺せなかったのである。

 おそらく彼には、殺害をやりきる覚悟はできていなかったのだろう。

 竹刀などという殺害用では全くない道具を手に持って行ったことからも、どこか切羽詰まった真剣さというものが感じられない。

 これは昔の武士なら、「武道不覚悟」と指弾され嘲笑されたことである。


 「ダメな奴は何やってもダメ」というか――しかしたとえ数人殺したところで、やっぱり速やかに忘れ去られる。

 自分の生きていた証を残したい犯罪者にとって、今は非常に生きづらい時代だ。

 そういう彼らが名を残すには、やはり新機軸の襲撃を行なうに如くはない。

 たとえば暴力組の本部や組の葬儀に特攻して組員らを殺害すれば、凡百の「こども襲撃事件」より、ずっと犯罪年代記に名を残す可能性が高くなる。

 ひょっとすれば、世の絶賛を博すかもしれない。

(しかしメディアは、あまり報道してくれない気もするが……)

 それにしても「こども襲撃犯」という肩書きは、もはや怒りや恐怖より「情けなさ」の方をより強く感じるくらい、価値が下落しているようだ――