プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「和式便器は守るべき日本の伝統」となぜ言われないのか?

 いま和式便器は、悪しき遅れた古臭さの象徴である。

 和式便器は悪、洋式便器は善である。

 和式便器はいつも「まだある」と言われ、学校などでの洋式便器への取り換えはいつでも「改善」と報じられる。

 日本はまさに「一億総・反和式便器」なのだ。

(⇒ ENCOUNT 2022年8月11日記事:和式トイレに女子社員悲鳴 老舗IT企業が引っ越しで大成功「普通になりたかった」)

 ところで私には、以前から不思議だったことがある。

 日本には「日本の文化と伝統を守れ」と強く主張・共感する人が、ものすごく多くいるように見えるのに――

 和式便器を擁護する声は全然一つも聞こえてこないのは、非常に不思議ではあるまいか。

 和式便器はまぎれもなく日本の伝統文化の一つなのだが、どうして誰も表立って擁護しないのか。

 また、和式便器には明らかに「便座に体が接触しなくて済む」という、コロナ時代には大きな利点があると思うのだが、それでも全く挽回のチャンスにはなっていないようだ。

 いったい日本人は、そんなにも足腰の弱い(しゃがめない)者ばかりなのだろうか……

 
 おそらく、日本の伝統・文化を守れと言っている人には、

 夫婦別姓とかジェンダーフリーとか入れ墨(タトゥー)とか、

 その他「舶来」の文化の流入には「日本には日本の文化がある、やり方がある」と激しく根強く抵抗する人が多いのだろう。

 しかし自分自身が不便・不快なのなら、日本の伝統や文化がなくなり置き換えられていくのも大歓迎、文句は言わないということだろうか。
 
 それでも和式便器は今でも製造されており、なんでも便器製造数の1%は和式便器だそうだ。
 
 逆に言うと、本当に日本の文化・伝統を愛好しているのは、それくらいの割合だということだろうか。
 
 それにしても……
 
 あらゆるメディアに和式便器派の声が全く出てこず、「和式便器に女子社員悲鳴」なんて書かれてしまうことばかりというのは、地味に日本人の文化観について何事かを語っているように思えるのである……

 

「費用対効果」は日本没落の一因だろう

 今の日本では、どこを見ても「日本ダメ論」「日本没落論」「日本衰退論」が花盛りである。

 ネットさえ少しでも見ていれば、そんな記事を見ない日は一日もないと言っても過言ではない。

(⇒ 現代ビジネス 2022年8月3日記事:日本政府が「28兆円」をひっそり無駄に…! 日本を「先進国で断トツ最低」に転落させた“日本政府の大罪”)

(⇒ 現代ビジネス 2022年8月9日記事:日本は「もう終わった国」なのか…H&M、GAPなどが“閉店続々&撤退ラッシュ”で、外資系アパレルチェーンに「日本が見限られた」!)


 では、なぜ日本はダメで、衰退するしか道はないかのような羽目に陥っているのか。

 もちろん、たった一つの原因にそれが特定できるようなことではないが――

 私が「これはかなり決定的な要因だろう」と思うのが、「費用対効果」思想の普及である。


 費用対効果、これが大事だと思わない人はいない。

 何をやるにしても費用対効果をまず考えよ、

 そうでない者はビジネスパーソンと言うよりも社会人一般の風上にも置けない、

 費用対効果こそ全ての仕事の基礎であり、当然にして神聖なる基準である……

 こういう考えは、疑う余地もない真実・正義として、ほぼ全ての日本のビジネスパーソンに受け入れられているはずだ。

 だが、しかし――

 この費用対効果の精神こそ、日本のイノベーションやアイデアを圧殺し、枯らしているのではなかろうか。

 そのせいで、やってさえいれば巨万の富を生み出していたかもしれない案を、むざむざ無かったものとしているのではないか。

 たとえば私が上司で、あなたが部下だとする。

 あなたは新たなプロジェクトを考えて企画書に書き、私に提出するとする。

 私は、たとえあなたが千の企画書を持ってこようと、全てを却下しダメ出しする自信がある。

 なぜならあなたの企画書に書いてあることは、全て実証されていないからだ。

 確かにそこへ費用対効果の検討は書いてあるのだろうが、そんなものは全て「机上の空論」と片付ければよい。

 「おまえ、自分の都合のいい数字ばっか拾ってきただろ」

 「都合のいい流れを、ストーリーを、答えを決めて作ってるだろ」

 とツッコミを入れることは、実に容易なことである。


 そもそもあなたの新プロジェクト案に、新商品案について、真に説得力ある費用対効果の計算なんてできるだろうか。

 できるとして、そんなものを(普段の仕事をやりながら)計算・作成するのに、どれほどの期間がかかるだろうか。

 世の中の人は、費用対効果の計算というのをものすごく甘く見てはいないか。


 2012年、新日本プロレスユークスからブシロードに身売りされた。

 そこで新親会社のブシロードがやったのは、都内の電車に新日本のラッピングを施すなど、大々的な広報作戦であった。
 
 それが不振に喘いでいた新日本の、V字回復の大きな一因になったと言われている。


 そこで、あなたに問う。

 こんな広報戦略の費用対効果を、予めどう計算するか。

 この戦略は(おそらく)ブシロード社長の木谷高明オーナーの主導で行われたのだが――

 その木谷オーナーさえ、そんな費用対効果を正確に計算できていただろうか。

 あなただったら、それをどう計算したか。

 いや、あなたがそんな計算をしてきた部下の上司であったら、本当にそれを「いい案だ!」と――もちろん自分でも計算してみて――賛同したか。突き返しはしなかったか。

 ひょっとしたらあなたは、部下・木谷の提案を「費用対効果が十分に示されていない」と、斥けたのではないか。

 
 「費用対効果を示せ!」というのは、誰でも言う正義の言葉である。

 しかし実際は反対に、できもしないことを示せという「悪魔の証明」を求める悪魔の言葉にもなっている。

 だいたい逆に、そんな言葉を口にする人もまた、その提案に費用対効果が「ない」ことを証明しないといけないのではないか。

 もっともこれは、裁判における立証責任のように、それが「ある」ことを主張する者(つまり提案者)の方が示す責任があるのだ、と言うこともできるだろう。

 だがそれは当然、提案者を委縮させることになる。

 どうせ費用対効果を計算するのは途方もなく難しく、しかも(当たり前だが)実証されていないのだから、まさに叩かれ放題・ツッコまれ放題になるのがわかっている。

 それがわかっていて、どうして活発に提案がなされるなんてことがあろうか。

 
 「費用対効果」という言葉が一般ビジネスパーソンに普及し、「社会人の常識」となってから、もう30年くらいは経つだろうか。

 その30年間、どれほどの数の珠玉のアイデアが費用対効果の名の下に葬り去られてきたか、

 そもそも勇気を出して提案されることさえなく死蔵されてきたか、

 空恐ろしい気分になるのは私だけだろうか。

 そしてまた、日本と違ってグングン経済成長している他国では、特に大成功した起業家たちは、本当に厳密な費用対効果を計算して事を起こし・進めているのだろうか。

 結局、日本における「費用対効果」という言葉は、新規なことに取り掛かる面倒くささをや果断さを取り除く大義名分になっている――

 と感じるのは、私の錯覚だろうか。

 少なくとも私は、ある提案に「費用対効果に疑問」とか言っている人がその提案の費用対効果を自分で計算しようとしているのを見たこともないし、想像もしがたいのだが……

 

文科省「ギフテッド」支援へ-宝くじに当たった人は勝手にカネを使えばよい

 世の中には昔から、「天才」や「神童」がいる。

 それは今では「天から飛び抜けた才能を授かった者」として「ギフテッド」と呼ばれている。

 そのギフテッドの子どもたちが「フツーの同年代」一緒に授業を受けるのが苦痛だとか、イジメを受けてしまうとかいう問題は、以前からよく知られていた。

 これについて文部科学省は、来年度から支援に乗り出す方針を固めたとのこと。

 ただしその内容は、

「ギフテッド向けの学習プログラムを展開するNPOなどの情報を提供」とか

「ギフテッドへの理解を深めるための教員研修を充実」とか、

 どうも直接的に「飛び級」させるとかではないようだ。

(⇒ 朝日新聞 2022年8月7日記事:飛び抜けた能力、なじめない学校 文科省「ギフテッド」の子を支援へ)


 私はこれについては、さっさとギフテッドは他の普通の子どもとは分離して「飛び級」なり「大学進学」「英才教育」した方がいいと思う。

 あるいはスポーツとか将棋とかいった分野なら、いきなりプロになるという手もあるだろう。

 それを言うと「分断だ」とかいう話になるのだが、もともと才能面ですでに分断されているのだから、いまさらそんなこと言っても仕方ないとしか言いようがない。

 
 むろんギフテッドの「特別扱い」を危ぶむ立場も「フツーの子どもとの同席」はもう止めるべきだとする立場も、共通するのは人間の「嫉妬」という感情の存在である。

 これがなければ、問題は非常に簡単になるのである。

 さて、ここで私がいつも思うのは、

「何かの分野の天才が生まれてくるのは、ごくありふれた当たり前のこと」

 及び

「飛び抜けた才能を持って生まれてくるのは、宝くじに当たるのと全く同じこと」

 という2つだ。

 要するにそれは、世の中で必ず起こる自然現象なのである。

 ギフテッドとして生まれてくるのは、ただの偶然なのである。

 宝くじに当たった人がそのカネをどう使おうと、自由である。そりゃ何かに使うだろう。

 同じく飛び抜けた才能を持って生まれてきた人は、その才能を自由に伸ばして使い、勝手に活躍すればよい。


 私は歴史上の「天才」とされる人物を見ても、別に感動も嫉妬もしない。

 それはただの偶然の産物だからである。

(特に、飛び抜けた軍事的才能というのは非常にありふれて発現するものであるようだ。)


 だから今の世の中も、ギフテッドがいても何も瞠目することはない。

 そういう才能を持って生まれる人は必ずいるのだから、何を驚くことがあろう。

 だから別に、「驚異の才能」とか言って持ち上げたり仰ぎ見る道理はないのである。

 もちろんみんな、宝くじに当たった人は羨ましい。

 しかしだからと言って、宝くじに当たった人を潰そうとか宝くじ制度自体を廃止しようとすることはない。

 (宝くじに当たったのが誰かわからない、ということもあるが……)


 よって、ギフテッドのことも宝くじに当たった人と同様、勝手に活躍すればいいと思えるのではないか。

 それがむしろ、あるべき態度ではないか。

 嫉妬もしないが尊敬もしない、たまたま才能があるなら自由にそれを伸ばせばよい、自分とは関係なく勝手に活躍すればよい――

 この心の持ちようで、ギフテッドもそうでない人もどっちも「救われる」のではあるまいか。

尊敬なき社会-上-「尊敬」は民主主義の敵である