プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「親ガチャ」には一つだけ解決策がある

 昨今、話題なのが「親ガチャ」である。

 結局人間、「生まれ」で人生が決まる。

 親の社会的地位や収入で人生が決まる。

 いくら努力したところで、恵まれた生まれつきの人には勝てない。

 たまたま貧困家庭に生まれたら、それだけでとてつもないハンデになって貧困から抜け出せない。

 これは、現実世界を悟ってしまった現代の若者の諦め又は絶望の表れだとされている。

 そしてこういう雰囲気は、日本だけでなく世界各国に広まっているようだ。

tairanaritoshi-2.hatenablog.com


 

 さて、この親ガチャというもの、どう考えても解決策はなさそうである。

 階級差をなくして人間平等になるはずの共産主義化が実現したとしても、なお解決などできはしない。

 どうせそういう国でも(旧ソ連北朝鮮が有名だが)、世襲の特権上流階級ができるに決まっているからだ。

 しかしここに、解決策があると言ったらどう思われるだろう。

 その解決策とは、物理的・社会工学的解決ではなく、心理的解決である。

 こう言うと、まるで往古の名探偵――史上最も「鼻持ちならない名探偵」ファイロ・ヴァンスが代表――の言い草のようではあるが、どういうことか。

 それは、恵まれた生まれつきの人を「尊敬しない」ということである。


 恵まれた生まれつきというのは、別に親ガチャの示すような「富裕層に生まれること」には限らない。

 それよりもさらに深刻なのは(言い訳が効かないのは)、「生まれつきの能力差」があることだろう。

 あなたがたいした能力なく生まれたというのに、

 他の誰かは優れた能力を持って生まれ、世の中で活躍し(有名人になり)、あなたよりはるかに高収入を得る――

 人はこれにこそ絶望し、打ちのめされるのではないか。

 そして現代、ネットを見てもテレビを見ても、どこもかしこも「金持ちスゴい(=能力スゴい)」賛歌が流れている状態なのだから、それはもう大勢の人間が打ちのめされて当然である。


 しかし誰もが「諦めて」思うように、それは仕方ないことである。どうにも変えられない現実である。

 人間の能力に差があるのは岩盤のように硬い事実であり、

 その結果としてスゴい人が活躍し、そうでない人がウダツが上がらないのは、どうにも解決しようがない。

 しかし、である。

 特定の人間が何か飛び抜けた能力を持って生まれてくるのは百パーセント偶然なのもまた、それよりもはるかに硬い事実だとは言えまいか。

 いわばそれは、宝くじに当たって生まれてくるのと同じである。

 ではあなたは、宝くじに当たった人を尊敬するか。

 羨ましいとは思うにしても、尊敬するのはおかしくないか。


 具体的に言おう。

 あなたはアレクサンドロス大王を尊敬するか、アインシュタインを尊敬するか。

 私はどちらも尊敬はしない。なぜならアレクサンドロスは戦争の上手い一般人であり、アインシュタインは物理の超得意な一般人だからである。

 二人とも「たまたま」そういう才能を持って生まれてきたのであり、そういう宝くじを引いて生まれてきたのである。

 また、彼らを尊敬することのアホらしさは、こう考えてみればさらに感じられるだろう――

 もしアレクサンドロス(と全く同じ人間だとしよう)が、江戸時代の日本の1万石くらいの藩の農民に生まれていたらどうだろう。

 もしアインシュタインが、古代インドの被差別民に生まれていたらどうだろう。

 あなたは彼らを尊敬するどころか、知りもしないし関心もないのが当たり前である。

 そしてそういうアレクサンドロスアインシュタインが、たぶん今までの人類史の中にウヨウヨいたし、名前も残さず死んでいったに違いないことを思えば、いわゆる天才を称賛するのがバカバカしくなってこないだろうか。 
 

 つまり親ガチャ問題の心理的解決とは、

 社会階層的だろうと個人能力的だろうと、とにかく「恵まれた生まれつきの人」を尊敬しないし称賛もしないということである。

 彼らはたまたまそういう風に生まれたのであって、活躍するなら勝手に活躍すればよい。

 恵まれているのだから、それに応じた活躍をするのは仕方ない。

 ちょうど、アラブの王族に生まれた人が贅沢するのが勝手であるのと同じことで――

 それは他人には、(その人が自分におこぼれをくれないならば)何の関係もないことである。知ったことではないのである。

 この心理的解決の強みは、それが厳然たる事実に立脚していることにある。

 「能力を持って生まれてくるのも、金持ちの家に生まれてくるのも、全ては偶然」

 という事実を否定できる人が、どこにいるだろう。

 いるとすればそれは、「こんな恵まれた境遇に生まれついたのは運命」「自分は神に選ばれた、愛された」「これは前世からの宿縁」と信じることができるような、オカルト迷信世界に足を踏み入れた人間だけである。

 (もっとも、だからこそ「知性のある」人でもオカルト陰謀論に魅せられる、という珍現象が普通に起こるのだろう。)


 活字プロレス界には、「勝者には何もやるな」という名言(なのだろう、たぶん……)がある。

 たまたま恵まれた境遇に生まれてきた勝者は、勝手に勝利すればよい。

 しかし彼らや彼女らに、尊敬も称賛も与えなくていい。

 それは、ただの偶然の結果だからである。宝くじの当選者だからである。

 もしこんな世界観を「寂しい」と感じ、拒絶するなら……

 それはやっぱり、親ガチャと格差に絶望する人間は、増える一方になるに違いない。

 

尊敬なき社会-上-「尊敬」は民主主義の敵である