一昨年2019年の10月から約1ヶ月、兵庫県庁の貯水槽の排水弁が閉め忘れられていた。
翌月、神戸市水道局から「水道使用量が異常に多い」と連絡があってわかったらしい。
それで生じた追加水道代は、約600万円(通常の約半年分)。
これは、点検業者が10月に定期清掃をしていたところ、県管財課の50代職員が「後は自分でしておく」と言ったから、業者は排水弁を開けたまま帰ってしまったかららしい。
結局県は、これまでの判例とも照らし合わせた上で、この50代職員に半額の300万円を払わせ、残りは県費で処理したとのこと。
さて、皆さんはこれについてどう思われるだろうか。
確かにこの50代職員が悪いのは明らかだが、個人に半額を払わせるというのには批判的ではなかろうか。
しかし何となく、職員の個人負担がゼロというのもおかしいとは思うことだろう。
では、10分の1払わせるのが適当だったろうか……
たぶん皆さんもこういうケースで、「職員負担がゼロ」というのは違和感があると思うのである。
かといって、こういうのは職員の人事評価に関わらせるべきで、個人負担を1円でも求めるのは筋違いだとも思うのではないか。
ここで私が思うのは、「信賞必罰」という言葉についてである。
この言葉、企業経営や人事に関する本では、必ずと言っていいほど書いてある。
もちろん、「これが重要」という文脈でである。
そのせいか、ほとんど誰でも「組織では信賞必罰が鉄則である。マストである」と口にする。
ところで今回の兵庫県庁であるが、いや、他のどこの組織にも言えることであるが――
「必罰」は実施しているとして、「信賞」の方は本当に実施されているのだろうか。
組織に600万円の損害を与えたら300万円の個人ペナルティを科す、というのなら……
では組織に600万円の利益をもたらしたら、たとえ30万円でも還元されているのだろうか。
これは断言してもいいと思うが、少なくとも兵庫県庁では、そんなことは一切ないのではなかろうか。
給料にもボーナスにも、まるで反映されないのではなかろうか。
たとえば、今まで全然回収できていなかった相手から滞納税100万円を取ってくる、というのは、大いにあり得る話である。
しかしこの場合でも、次の月の給料が1万円すらアップすることは絶無だろう。
これは他の組織でも同じで、「必罰」あって「信賞」なし、というのは、むしろ日本のスタンダードではあるまいか。
それも(救いようのないことに)「信賞必罰が大事だ」という人さえも、こういうときに「信賞」を行うよう強く主張することはなさそうである。
もし信賞がないのなら、必罰もやはりないべきである。
必罰あって信賞なし、とは、要するに「減点主義」のことである。
そして日本のほとんどの組織は、減点主義が悪いという点では意見が一致していても、実際には減点主義しか運用する能力がないのではないか。
これは当たっていると思うが、どうだろうか。