「ら抜き言葉」は、間違った日本語の使い方とされている。
少なくとも正式ではなく、改まった場で使うべき言葉でないとされている。
しかし私は逆に、ら抜き言葉こそ世に言う「美しい日本語」であり、ら抜きでない表記はむしろ絶滅した方が良いと思っている。
まず、ら抜きでない表記――
例として「テレビを見られる」を採り上げてみよう。
これには、三つの意味が読み取れる。
①可能態:「テレビを見ることができる」の意味
②受動態:「(私の)テレビを見られてしまう」の意味
③敬語態:「テレビをご覧になる」の意味
一つの表記で、この三つの意味のどれにも取れる。
その文章単体では判断できず、前後の文脈を見ることでしか判断が付かない。
これを私は、「美しくない」と思うのである。
では、ら抜き言葉にすればどうか。「テレビを見れる」――
これは問題の余地なく、①可能態 の一択である。
すなわち、その文章を見ただけでどんな意味だか判断できる。
私はこれを、「美しい」と思うのである。
美しいというのが言い過ぎなら、ら抜きでない「見られる」なんて表記よりは、はるかにマシだと思うのだ。
第一、あなたも私も日本人のほぼ100%が、「テレビを見ることができる」を口語で言うときは「テレビを見れる」と言っているのではなかろうか。
そしてそれは別に近年始まったことではなく、昭和の中期あたりからはもう完全に定着していたのではなかったろうか。
私には、可能態しか示すことのない「ら抜き言葉」は、ら抜きでない言い方・表記よりも機能的に圧倒的に優れていると思える。
だからこそ口語としては完全に・現実に、ら抜きでない言い方を駆逐してしまっているのだと思う。
なにも、言葉に限った話ではないが――
「美しい日本の●●」として日本の伝統などなどを守ろうとする姿勢には、しばしば「現状至上主義」「現状固守主義」の匂いが感じられる。
いや、むしろ現状は既にそうではないのに、「かつての現状」を今に行うべきだ、それが正しいんだと言わんばかりの姿勢が感じられる。
誰よりも当の本人が、それを守っているとは言えないにもかかわらず、である。
だから、「ら抜き言葉」はその使用をむしろ普及促進すべきだと思う。
どうしても使いたくなければ、「テレビを見ることができる」とハッキリ書くべきだと思う。
それで困ることと言えば、外国人が日本語を学習するとき「可能態の時だけは「ら」を抜く」という、覚えなければならない新しい規則が増えることだろう。
しかしそれが今の日本の語法なのだから、覚えてもらうしかないのではなかろうか。
このブログでも書いたことがあるし、あなたも古文の授業か参考書で習ったことがあるはずだが……
「すさまじい」という言葉は、かつて「興醒めする」という意味だった。
それが今では「ものすごい」という意味に変わってしまったのだから、「ら」を抜くことなんてかわゆいものである。
しかもそれは、有用な可愛さである。
それともあなたは、世の中の大多数の人は、「同じ表記でいくつもの意味に取れる表記こそ、美しい」と感じているのだろうか……