8月8日15時、天皇自らが読み上げる「お気持ち」ビデオメッセージが、NHK・民放テレビ全局をはじめあらゆるメディアで流された。
内容は(もちろんはっきりとは言わないが)生前退位の意向を強く思わせるものであったが、ここではそれについて全く触れず、ただ感じたことをそのまま書く。
私が感じたこととは――
1945年の敗戦以来71年間、反天皇の思想家・活動家・文筆家らがやってきたことは、いったい何だったのかという感慨である。
彼らにしてみれば、二十一世紀初頭には天皇制はとっくになくなっているはず/いるべきものだった。
それは高望みにしても、今回のように天皇自ら国民に向けて広くメッセージを送るなどということ自体、「あってはならないこと」と国民は受け止めるべき――
国民がそういう雰囲気になっていることこそ、彼らの目指す日本だったはずだ。
彼らの理想とする日本では、メッセージを読み上げる天皇に対し、ネット上には
「何の権限もないくせに黙ってろよwww」
「おいおいおまえはただの象徴だろ、こんなことしていいのかよ」
などという書き込みが溢れて然るべきであった。
しかし実際には、ネットの書き込みの大半は「感動した」「涙が出てくる」「我々も考えなければいけない」というようなものである。
2016年の日本で実現したのは、天皇制の廃絶どころか「二十一世紀の玉音放送」だった。
あの、どんな大事件が起ころうとアニメやバラエティを放送することで評価の高いテレビ東京でさえ、このメッセージの特番を組んだ。
そして、政治権力を持たないはずの天皇の意志の発露により、特別立法(現天皇に限り生前譲位を可能にする)の制定までが検討されようとしている。
しかもそれを、多くの国民が支持している。
これは間違いなく、天皇の意志が政治を・法律を動かしていることになるにも関わらず……
いやはや、戦後71年もの時間がありながら、いったい反天皇派の人たちは何をやってきたのかと思いたくもなろうというものだ。
私のように主に1980年代に少年だった人間には覚えがあるだろうが、当時まだ天皇や自衛隊というのは明らかに悪者だった。
漫画『はだしのゲン』はもちろんのこと、手塚治虫の漫画にも、至るところに反天皇の言動・情動が散らばっていた。
(ゲンの作者の中沢啓治も手塚治虫も、札付きの反天皇思想の漫画家と言って過言ではない。
『日本沈没』を書いたSF作家の小松左京も、初期の作品『物体O』などではバリバリの反天皇主義者にしか見えない。
しかしなぜか、その後「転向」したようだ――昔の天皇に対して敬語を使って書くほどに。)
おそらく当時の少年少女の大多数は、「天皇は悪いもの」とのイメージを持っていたはずである。
そうでない者は変人扱い・アブナい人間扱いされていたはずである。
それが今は、どうしたことか――
近年の書店やネットに溢れている嫌韓・嫌中・反韓・反中の本や言説は、「ネオ国学の興隆」と捉えてよいのではないかと私は思う。
江戸時代中期から隆盛し、尊皇思想を鼓舞し、ついには明治維新に至ったあの国学(本居宣長がその頂点)は、二十世紀末から形を変えて日本に復活した観がある。
やはり現代は、「戦後幕府」の終焉に向かいつつある時代なのだろう。
tairanaritoshi-2.hatenablog.com
いまや反天皇思想は時代のトレンドでなくなり、そういう意識を持つ人は「オジン・オバン・老害」の旧世代人としてバカにされつつあるのだろう。
なぜそうなってしまったのかと言えば――
思想の潮流は決して固定化しないという世の中の当然の真理とともに、反天皇思想の人たちは次第に庶民から「上級貴族」「腐れ儒者」と見なされるようになったのが大きいと思う。
そしてまた、飽きられもしたのだと思う。
もはや現代から見れば、反天皇思想を持つ人間とは保守派・守旧派なのであり、決して改革派・革命派ではない。
それは戦後幕府という従来の雰囲気を支える、頑迷固陋な――それこそ昭和脳から脱却できない、確固たる体制派に見られているのかもしれない。
いや、実際は、天皇なんてなくせばいいと思っている人間/天皇制に反感を持っている人間というのは、今でも国民の大きな部分を占めているのだろう。
(半数くらいはそうであってもおかしくない。)
しかしネットなどのメディア上では、そうでない意見の方がずっと多く見聞きされる。
それ自体、反天皇派が世の「雰囲気」を掌握し損ねたことの証明である。
ネオ国学の台頭と、二十一世紀の尊皇思想の興隆――
歴史は繰り返すと言うが、我々はどんな形で次の「幕末」を迎えるのだろうか?