プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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3万1000年前の脚切断手術成功-超古代の超医学史

 インドネシアカリマンタン島ボルネオ島)で発見された3万1000年前の人骨から、そんな時代に脚切断手術が成功していた証拠が見つかったと報じられた。

 人骨は20歳前後で死亡した男性のものと見られ、脚切断手術から6~9年は生存し、感染症にかかった形跡もないという。

(⇒ AFP BBニュース 2022年9月8日記事:3万1000年前に足切断手術 インドネシアで発見の人骨に痕跡)


 3万1000年前といえば、1万年前まで続いた後期旧石器時代が始まった頃である。

 そんな時代に脚を切断し、かつ感染症にもかかることなく治癒したというのは、実に高度な外科手術技術だと感じられる。

 これでまた世界の謎とロマンのファンたちにとっては、「超古代(石器時代)の超技術、とりわけ超医学」の輝かしい例が一つ増えたわけだ。

 もちろん、この古代の超医学の金字塔とも言うべきものは、例の信じられないほど古代から行われていた

「開頭手術(穿頭術)」

 というものである。

(⇒ ナショナルジオグラフィック 2016年7月5日記事:古代インカの穿頭術、成功率は70%を超えていた)

 頭蓋骨に穴を開けて病気や怪我を治そうとする――

 これは古代人としてかなり大胆、いや驚異的な発想とさえ現代人には思えてしまう。

 そんなこと思いついてもとても実際にはやれない、というのが普通の現代人の感覚だろう。
 
 これを凌ぐのは、「目を針でいじくって目の病気を治そうとする」くらいのものではあるまいか。

 そして今回の「石器時代の脚切断手術の成功」というのは、驚きは驚きだが「頭」や「目」ほどの驚きではない、とあなたは思われないだろうか。

 
 3万1000年前と言えば、既に人類は腐るほど狩猟経験を積み重ねてきた。

 よって、脚を切断された動物がそれでも生きているというケースは、星の数ほど見てきたはずだ。 

 そして当然のことながら石器時代人は、動物の解体や体内構造の実見にかけては、現代人など全く足元にも及ばぬほど習熟していた。

 あるいはわざと動物の脚を一本切ってみて、どうやったらそれを生かしておけるかという「超古代の動物実験」をしていたとしても、全然意外なことではない。

 そういうところから人間の脚を切断して生かしておくことに至るのは、ほんの一歩の距離ではあるまいか。

 
 むしろ不思議な点は、そういう医術が後代の(現代の)狩猟採集民――たとえばアマゾン奥地の部族たち――に継承されなかったということだろう。

 これは私もよく知らないので間違っているかもしれないが、現代・近代の狩猟採集民がこうした外科手術を一般的に行っているということは、どうもないようだ。

 脚を切断して感染症にかからせない――病原菌の存在は知る由もないにしても、経験的に破傷風を防止する――ことは、むしろ開頭術(を思いつくこと)に比べれば容易なように思える。

 しかしそれでも、脚切断手術というのは広く後代に残されなかったようである。 

 それにしても今回のニュースで最も印象に残るのは、この男性がせっかく脚切断手術に成功して生き延びたのに、それでもたった20歳前後で死んでしまったことではあるまいか。 

 あるいは、このことこそが――苦労して治しても結局すぐまた他の原因で死んでしまうことが――、石器時代人の治療意欲を削いでしまったのだろうか。

 どうせ技術で治してもそんなに長くは生きられないのだから、呪術の方がよっぽど頼りになるとか……

 そして、それが「正しい」時代が、あまりにも長く続いてきたのだろうか。

 

香川照之「鬼の形相」と人間リスク

 日本を代表する男性俳優・超売れっ子と呼ばれ、トヨタイムズ「編集長」も務める俳優・香川照之の女性ホステスへの性加害問題だが、ついに噂の「現場写真」が公開された。

 デイリー新潮では、その写真を掲載して

「鬼のような形相で、笑いながら女性の髪をわしづかみにする姿は異様というほかない」

 と書いている。

(⇒ デイリー新潮 2022年9月4日記事:【証拠写真の別カット】異様な表情の“香川照之”がホステスの髪をわしづかみにした衝撃の瞬間)

 なるほどこんなキャプションを添えられると、異常な狂気の悪魔的笑い顔に見える。

 しかし(ケチをつけるわけではないが)思い返してみると、こんな表情をしている一般人って、日常の生活や仕事でしばしば見かけはしないだろうか。

 何ならあなたも飲み会や遊びの場では、こんな表情で笑ってるのではないか。

 しかし「水に落ちた犬は叩くべし」という現代道徳に照らせば、こんな書き方をされるのは理に叶っているのだろう。

 となるとあなたも、自分が笑っている写真は決して撮らせない方がよさそうである。


 それはともかく、困ったのは彼を持ち上げて賞賛してきたメディアの方だ。

 特にトヨタは、自社メディアであるトヨタイムズで彼を「編集長」として使ってきたのだから――もちろんお飾り編集長で、編集の仕事なんてしてるわけがないが――、実に困ったもんである。

 そしてつくづく思うのが、もう本物の人間を持ち上げて賞賛しPRに使うのは、いい加減やめるべきではないかという感想である。

 どうせ人間なんて、裏で何してるかわかったもんじゃない。

 どこからどう見ても好青年・知的紳士である人間が、実は変態性欲者であるとか異常サディズム趣味者であるとか激烈な男女差別主義者であるとかは、世の中にありふれたことだ。

 頭がいいとか演技が上手いとか関係なく、人間には裏の姿・真の姿があるものだ。

(⇒ 2017年11月14日記事:横綱・日馬富士の暴行事件と札幌「エリート弁護士」のタクシー大暴れ事件-全ての人間は「一般人」である)

 これは人間の常識だと思うのだが、それでも常識になりきれていないのは今の日本を見れば本当によくわかる。

 とにかく人間は(現代日本人は?)、どうでもこうでも誰かを賞賛し持ち上げずにはいられない性質がある――

 「スゴい人」を作らずにいられない性癖があるようなのだ。

 だから今回の香川照之事件があっても、また似たような話が何度も連続して出てくるのは間違いない。

 人間は学ばない、というのは本当である。

 人間は学ばない、と言ったり書き込んだりしている当の本人たちさえ、やっぱり学ばない。

 芸能人や有名人をCMや企業PRに使うのは全世界的な風習ではない、と知っていてさえ――それが信じがたいと思う日本人は多いだろう――、やっぱりそうすることを当分やめられないのである。

 

「国語力の低下」は「長文排撃」と絶対に関係がある

 子どもたち及び日本人全体の「国語力の低下」というのは、何十年も前からずっと言われていることである。

 この調子だといったい日本人の国語力は、どれほど低下したものだろうかと思わずにはいられない。

 そして現代は、また何度目かの「国語力低下ブーム」が起こっているのかもしれない。

(⇒ 集英社オンライン 2022年8月26日記事:教員の8割が感じている「子供の国語力低下」が引き起こす深刻な問題)

 さて、国語力の低下を憂える人は(昔からずっと)多い。

 しかしそれにしても不思議なのは、そういう人がなぜか誰も指摘しない「明白な原因」があることについてである。

 その明白な原因とは、「長文は悪」の国民的常識である。

 いまや長文は、ただ長いというだけで悪である。

 ネット記事で全部読んでも10分くらいの文章でも、「ダラダラ長い」「長いので読んでませんが」とコメントの付かないものはほとんどない。

 そして今の日本のビジネス界や仕事の面でも、必ず教え込まれるのが

「長文は絶対に駄目、短くまとめなければ」

 という道徳観である。

 とにかく、どうでもこうでも何が何でも、長い文章は駄目であって罪悪なのだ。

 そういうことを、日本の大人たちは「社会人の常識」として教え込まれる。

 そういう状態で「国語力の低下」が起きるのは、バカでもわかる当たり前のことではあるまいか。

 
 よく「長い文章は読む気が失せる」と言われるが、それはつまり「長い文章を生理的に受け付けられなくなっている」ということである。

 つまり実際のところ、「読まない」「読む気にならない」のではなく「読めない」のだ。

 要するに「読めるけど自分の意志で、あえて読まない」のではなく、能力的に読めないのである。

 10分で読める文章も「長すぎる」のであれば、小説なんかとてもとても読めるはずがない。

 もちろんこれは、読書力の低下をもたらすに決まっている。

 こんなことは書いていてもバカバカしいほど当たり前のことであるが、

 しかし現実の世界ではとにかく長文は排撃し、短い文章とすることが推奨どころか道徳化されている。

 それなのに「文章は短くしろ」と部下や後輩に言っているのと同じ人が、日本人の国語力・読書力の低下を危惧してるなんていうのは、狂気の沙汰と言っては言い過ぎだろうか。


 そしてこの「長文排撃」の道徳は、日本社会の格差をさらに広げる効果も生んでいると思われる。

 さすがにいくら何でも、弁護士などといった有資格者に「長文を読まない・本を読まない」でなれると思う人はいないだろう。

 そして日本の上層階層は、人には「長文は駄目」と教えたり説教しておきながら、自分は長文の本を読んでいるのではないか。
 
 自分の子どもには、長文の本を読ませているのではないか。

 それは非常に高い割合で、高収入の仕事に就くという「遺伝」を生んでいはしまいか。

 つまり、バカで下級な一般庶民は「長文は悪」の道徳に染まらせておいて、自分たちだけは長文を読んで上流の地位を確保するという構図である。

 
 しかし本当に、「長文は悪」と本気で思っていながら、それでいて同時に「国語力の低下」を憂えることができるというのは、人間の心のバカバカしさと面白さを示す光景だろう。

 だが一般庶民がそんなことしてる間に、上級国民らはわが子に本を読ませている。

 これは、庶民による格差の自己拡大だと感じるのは誤解だろうか……