プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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上島竜兵すら自殺する世界に生きる、ということ

 5月3日、俳優の渡辺裕之(66歳)が自殺死した。

「ファイト、一発ぁーつ!」で有名な、リポビタンDのCMに出ていたので知られる人である。

 そして5月11日、ダチョウ倶楽部メンバーでありリアクション芸の大家、かつ後輩芸人らとの集まり「竜兵会」すら有名な上島竜兵(61歳)までも自殺死した。

 これには、日本全土が震撼したのではなかろうか。

 2人とも、この世で最も自殺から遠い(自殺が似合わない)人のように思えるからだ。

 これは誰でも知っている「現代人の基礎知識」だが、日本では毎年2~3万人くらいの人が毎年自殺死している。

 毎年であって、新型コロナの死者数なんてまるでメじゃない「日常」である。

 それでいてメディアの世界ではエンタメとかお笑いとか面白系のコンテンツが溢れているのだから、つくづく我々は超現実的な世界を生きているものだと思う。

 面白コンテンツの世界と「上島竜兵すら自殺する世界」。

 お笑いエンタメの隆盛と毎年3万人が自殺し続けている――つまり、その数倍・数十倍の人間が思い悩んで苦しんでいる――という事実。

 面白お笑いコンテンツの中にいる人、それもかなりの大立者すら、自殺を選ぶという現実。

 こういうことが同時並行で走っているのが、我々の生きる世界なのだ。

 実際、あの上島竜兵さえ自殺するというのなら、誰が――どんなに面白く明るそうな人であっても――自殺しても全くおかしくない、と感じて当然だろう。

 そして所詮、我々は他人の心の内など全然わかっちゃいないのだと改めて思うものである。

 成功した、その国の中では知らぬ者の方が少ないほどのお笑い芸人さえ、例外とはしない「自殺の普遍性」……

 いったいこの世にはどれほどの心の苦しみが(密かに)充満しているかと思うと、空恐ろしい思いがするではないか。

 

「体育座り」以外も全ての「座る」は体に悪い―その働き方改革はできるか?

 ついにその日が来た。

 あの学生時代に誰もがやってきた「体育座り」が、槍玉に上がる日がである。

(⇒山陰中央新報ニュース 2022年5月6日記事:体育座り「つらい」腰痛原因 見直す学校も)


 私は上記引用記事で初めて知ったのだが、あの体育座りというのは「世界で日本でしか見られない珍しい座り方」らしい。

 人間の座り方の種類なんて極めて限られていて、世界には何千もの民族・種族があったのだから、そのうち一つくらいはこういう座り方を常としていた集団がありそうなものだ。

 しかしそれでも、これは日本独自の(しかも1965年という近過去から広まった)座り方だという。

 もちろん日本独自の座り方には、長い伝統を持つ「正座」というのがあるのだが……

 座り方などというたいしたバリエーションもなさそうな分野において、2つも独自の座り方を開発・定着させてしまう日本人というのは、確かに世界に類を見ない独特・特異の民族であり、文化圏なのかもしれない(笑)


 さて、この記事がきっかけで、日本の学校での体育座りは急速に姿を消していくだろう。

 そもそも体への悪影響は度外視するとして、汚い地面に尻を付けるというのがもう、洗濯上かなり家庭での問題だったはずである。

潔癖症の子どもやその親は、今までどう思って体育座りに文句を付けなかったのだろうか……)


 だが、しかし……

 体育座りに限らず、とにかく「座る」――

 正確には「長時間座る」という行為自体が体に極めて悪影響を及ぼしている、

 というのは結構有名な話だと思うのだが、こっちの方は日本から急速に姿を消すということは非常に考えにくい。

(⇒ ビジネスインサイダー 2017年10月20日記事:座りすぎの死亡リスクは最大40%増??日本人は世界一座りすぎている)


 「座りすぎ」を解決するには、「立つ」か「寝る(寝転がる)」のどちらかである。

 このうち「立つ」の方は、椅子を設けず立ったまま会議をするとかいう形式でぼちぼち広まっているとは言える。

 しかし「寝転がって仕事する」というのは、とてもじゃないが職場で容認されるとは思われない。

 (そもそも「座る」より体を動かさなくなる。)


 少なくとも日本人は、いまだ「椅子に座って仕事する」以外の仕事方法を編み出していないし、真面目に想像することもできていない。

 そうなると、どうも椅子に座って仕事するのが体に悪いのは「足の筋肉を使わず血行が悪くなる」ことが原因のようなので、

 対策としては「貧乏ゆすり」の奨励、ということになりそうである。

 もちろん、椅子から立ってその脇でちょこちょこスクワットでもしていればいいのだが――

 そんなことすら普通の日本人は(日本人以外でも)実行に移そうとはしないのは、明々白々なことだろう。

 運動すれば体にいいのはわかりきったことなのに、それでも大多数の人は運動しようとしないものだ。

 しかしやはり、仕事している人間がみんな貧乏ゆすりをやっている、などという光景は、日本人にとって「道徳的に許せない」ことなのに違いない。

 

 はたして日本人は、座り方に関する働き方改革ができるか。

 体育座りは廃止できても、「長時間座り労働」を改革できるか。

 断言はできないものの、それは当面無理ではないかと思わざるを得ない。

 

デジタル庁職員に不満渦巻く―日本の道徳はDX化に向いてない

 5月1日、デジタル庁が業務改善のため実施した内部アンケートの結果がわかった。(公表してないのに、わかったらしい)

 回答率は85%(約550人)という驚異的な高さであり、その内容は

「業務が多すぎる」

「風通しが悪い」

「やる気を失っている若手が非常に多い」

「職員がどれだけ日々つぶれているか、来なくなっているか幹部は把握しているのか」

 等々という、惨憺たるものだったらしい。

(⇒ 共同通信 2022年5月1日記事:デジタル庁職員、職場に不満「激務」「風通し悪い」)

 こういう話を聞くと我々は、「そら見ろやっぱり官庁だから、役所だから」と脊髄反射してしまいそうだ。

 しかし反面、この日本自体が他国に比べ――経済規模が何十分の一の国に比べてさえ――、デジタル化・DX化が非常に遅れているというのは、もはや日本の常識ともなっている。

 つまりたいていの民間企業だって、デジタル庁と五十歩百歩ではないかと推測される。

 ところで私は、そもそも日本が・日本人自体が、デジタル化・DX化には向いてないんじゃないかと思うものである。

 端的に言うと、日本人にとってデジタル化・DX化とは「反道徳化」「無礼化」なのではないか――

 つまり道徳的に受け入れられないのではないかと思うのである。

 その日本人の道徳とは、要約すれば次のようなものだ。


①「目上」の方には「紙」資料で、「御面前でご説明申し上げ」なければ無礼である。

②メールだけで用件を伝えるのは無礼で、必ず電話しなければならない。


 いかがだろうか。当たっていないだろうか。

 特に②などは、もうDXとか言う以前の話である。 

 しかし現実にこういう道徳が日本では普遍的なものだとは、たぶんみんな知っている(実感している)ことだろう。

 ここでは書かないが、デジタル化・DX化の遅れだけでなく、ビジネス・経済の全般にわたる問題の根底には、この「道徳」というものがあると私は思う。

 今の日本のほとんど全ての問題は、ただ一つ道徳問題に還元できるとさえ思う。

 真面目にも皮肉にも聞こえるが、DX化の遅れや拒否は、日本の美しい「国体」「国柄」を守ることに繋がっていないだろうか。


 たぶん今の日本は、かつての中国みたいなことになっているのだろう。

 西洋からどんな先進技術が来ても「やっぱりこの国が一番(いい)」と思い、その中華思想を美しいものとして守りたいと自然に思ってしまうのだろう。

 しかしそれも、仕方ないことなのかもしれない。

 いずれどの大国も「老大国」になる運命にあるのだから、今は日本にその順番が回ってきたということなのだ。

 だから今からの若い人は、ぜひとも英語または中国語をマスターして、日本の外に出て働けるよう勉学に励むべき時である。