プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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小山田圭吾のイジメ問題と「才能を尊敬する」アホらしさ

 ミュージシャンとして国際的評価も高い(らしい)、そしてこのたびの東京五輪の開会式・閉会式の音楽を担当する、小山田圭吾(52歳)が――

 学生時代に障害者相手にヒドいイジメをしていたことについて、大批判に晒されている。

 そのイジメというのは、雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』(1994年1月号)と『クイック・ジャパン』(1995年第3号)における本人インタビューで、自ら語っているものである。

(⇒ デイリー新潮 2021年7月17日記事:イジメっ子「小山田圭吾」の謝罪に不可解な点 当時の学校運営に不満だったという証言)

(⇒ 日刊SPA! 2021年7月17日記事:小山田圭吾の“いじめ自慢”と、90年代鬼畜ブーム。なぜ彼は間違ったのか)


 私は小山田圭吾という人のことを、ほぼ知らない。

 音楽も(少なくとも彼のものだと知っては)聴いたことがない。

 もともと興味がないのであるし、小山田信茂武田勝頼を裏切った武将)と関係あるのだろうかとボンヤリ思うくらいである。 

 しかし彼が、その凄惨とも言うべき「イジメ自慢」を、90年代半ばの『ロッキング・オン・ジャパン』と『クイック・ジャパン』誌上でしていたということ――

 それが25年も経った今になって蒸し返されて大批判を浴びているというのを知って、

 不謹慎ながら「ああ、やっぱり」と大いに頷くところがあった。


 『ロッキング・オン・ジャパン』と『クイック・ジャパン』とは、いかにもそういう「お笑い非道不良記事」を載せそうな雑誌であった。

 これは、当時この両誌を少しでも読んだことがある人は、やはり頷くところがあるだろう。

 そして、そういう形で、既に世間に公表されていたにもかかわらず――

 25年も経って、しかも彼がオリンピックの音楽担当になって、ようやく初めて世間に糾弾されることになるなど……

 何というか、両雑誌にいかに世間への影響力がなかったかを、まさにお笑いレベルとも言うべき形で見せてくれているではないか。


 私は彼に興味がないので、このイジメ問題についてクドクド書こうとは思わない。 

 しかしこういう話を聞くたびに思うのは、

 「有名人」や「特別な能力を持つ人」を尊敬し称賛するということが、いかにくだらないアホらしいことであるか、である。

 音楽だろうとスポーツだろうと、ノーベル賞を受賞するような学力だろうと――

 あるいは戦争の天才とか、レオナルド・ダ・ビンチのごとき万能的な天才だろうと、

 そういう能力は、どこかの誰かが必ずや持って生まれるものである。

 彼らがそういう能力を持って生まれるのは、純粋にただの偶然である。

 いわば宝くじに当選するようなものなのだが、さて、あなたは「高額宝くじの当選者」を尊敬するだろうか。称賛するだろうか。

 むろん世の中には、「運がいい」ということさえも称賛する人がいる。

(そしてそういう人間の数は、かなり増えているようではある。)
 

 しかし基本的には、羨ましいとは思っても尊敬はしないだろう。

 一般的に、障害者をイジメた上にそれをチョイ悪な話として笑って語るような人間は、最低のクソ野郎と言われる。

 しかし才能の配賦は純粋にランダムであるから、そのクソ野郎が飛び抜けた音楽の才能を持って生まれたとしても何の不思議もない。

 だから我々は、そういう人間を尊敬する理由はないのである。

 彼はその才能を持って勝手に活躍すればいいのであって、別に他人が称賛する義理も道義もあるわけがないのである。
 
 これはごくナチュラルな、ごく当然の考え方だと思うのだが――

 しかし現代は、

 「優れた能力を持つ人は尊敬すべきだ、そうしないのは人の道に外れる」 

 と言わんばかりの道徳が、むしろ優勢のようである。

 それどころか、人為的に「スゴい人」「エラい人」を作り上げるのは一つの産業にさえなっている。

 おそらく、子どもたちの世界でさえも……

 世の中には「スゴい人」がいる、すなわち人間には上下がある、それが世の中の道徳なんだ、と普通に思われていそうではないか?

 
 当たり前のことだが、芸能界でもビジネス界でもどこの世界でも、

 かつて凄惨レベルのイジメをしていたことがある人間は、小山田圭吾ただ一人であるわけがない。

 彼らはみんな、たまたま優れた能力を持って生まれてきた「ただの人」である。

 この世の中に、「ただの人」でない人間は一人もいない。

 それをやたら尊敬したり称賛したり持ち上げたりするのは、リスクと言うより自分の愚かさ・純粋ヌケサク加減を示すだけではあるまいか。

 どうせ、あのヒトラーだって、「スゴい人」には違いなかったのだから……

 

個人情報保護法は「日本(人)の闇」か-「情報共有は悪」という道徳

 高齢者なんかに賃貸住宅を貸したら、ものすごくめんどくさいことになる。

 だから高齢者なんかに二度と貸さない――

 そういう事例が多いことを、「賃貸トラブルの専門家・司法書士」の太田垣章子氏が書いている。

(⇒ ヤフーニュース 2021年7月8日記事:高齢者に貸すなら空室のほうがまし… 賃貸トラブルの現場に潜む日本の闇)

 さて、この記事でのハイライトは、次の部分である。


************

 ここでもし地域の不動産会社と行政や地域包括支援センターなどが連携すれば、情報が共有され、町ぐるみで高齢者を見守ることができます。

(中略)

 しかしこの誰も困らない、誰もが助かることについても『個人情報保護法から情報共有できない』のが現状なのです。

 縦割り行政の、弊害以外の何ものでもありません。

 今後生産年齢人口はどんどん減り、そして急速に高齢者の占める割合が増える中、各分野が連携せずして日本はどうやって対応していくことができるのでしょうか。 

************

 
 私はこのうち「縦割り行政の弊害以外の何ものでもありません」の部分に、違和感を持つ。

 ここは当然、「個人情報保護法の弊害以外の何ものでもありません」とあるべきではないか。

 そしてここにこそ、「日本の闇」があるように思う。

 つまり、こんな記事を書くような専門家の人でさえ――

 「個人情報保護(法)には弊害がある」

 と 言ったり書いたりすることができないという闇があるのではないか。

 たぶんまともに働いている日本人のほとんどは、この個人情報保護というものに弊害があると思っているはずである。

 現実に、仕事や生活に支障が出ていると感じたこともあるはずである。

 しかし誰も公然とは、個人情報保護が悪だとか弊害だとかは言わない(言えない)。

 「個人情報が大事」というのは、現代人の道徳であり当然の正義だからである。

 それがちょっとでも弊害があるなんて言えば、とんでもない奴と見なされてしまうからである。

 だから代わりに、誰でも悪口を言っていい「縦割り行政」という言葉で言い換えるしかないのだ。
 
 
 そしてまた、「闇」の上塗りというか――

 個人情報保護という道徳が(本心では)行き過ぎだ、と思っている人でさえ、

 他人に対しては必ずや、個人情報保護「信者」みたいになるというのが普通なのだ。 

 自分の電話番号、知人の電話番号、これらを他人に教えることは、一種の勇気や罪悪感を要することである。 

 人は誰でも、そしてどこのどんな組織でも、「連携」や「情報共有」が大事だと言う。

 それを自分たちは推進する、と公には言う。

 ところがどっこい、それは――

 不祥事が起こったら「今後は社員への研修を強化します」とコメントするのと同様、「とりあえずそう言ってみる」という類いのものでしかない。

 連携するというのは情報交換をすることでしか成り立たないはずだが、

 しかしその情報交換というもの自体が「悪」と世間は見るのである。

 あなたやあなたの属する組織が他人の情報交換なんかして、それが「悪」だ「問題」だと非難攻撃されたとき、弁護を買って出る第三者など一人もいない。

 それがわかっているのだから、個人情報保護という道徳を(非難される恐怖に基づき)頑なに守ろうとするのは、むしろ人として当然のことだ。

 もちろん太田垣氏の示唆するとおり、情報共有がなされなかったばかりに孤独死する高齢者は、これから増える一方だろう。

 だから「高齢者には貸したくない」という家主も、きっと減ることはないだろう。

 だがそれは、別に縦割り行政のせいではない。

 何のせいかと言えば、それは国民の共有する道徳のせいである。

 と言うか、情報共有しない――情報共有なんかしちゃって非難されるのを恐れるゆえの――縦割り行政が存在するのは、まさに国民の道徳観に基づいている。

 そしておそらく、情報共有がないばかりに孤独死する高齢者たちも――

 自分のことが情報共有されたら、むしろ不快になるのではないか。

 情報共有した人たちのことを批判し怒るのではないか。

 闇というなら、これこそが日本の闇ではないかと思うのだが……

 

「夫婦強制同姓は合憲」で姓の大絶滅と家名断絶は不可避に

 6月23日の最高裁判決は、今の日本の「夫婦はどちらかの姓に合わせなければならない」という民法の規定を合憲とした。

 また6月28日にも、最高裁は夫婦強制同姓制度は憲法違反だとするサイボウズ社長・青野慶久氏の上告を棄却した。

 これについてはこのブログでも何度か書いてきたが、私は選択的夫婦別姓に賛成である。

 (もっとも、熱烈と言うほどではないが……

  しかしそれを言うなら、熱烈な程度に賛成している制度なんて、皆さんにはあるのだろうか。

  あるとしたら死刑制度だろうか。)


 その最も大きな理由は、夫婦強制同姓制度を維持する限り、日本での姓の大絶滅と家名断絶の大量発生は防げなくなるからだ。

 一般に夫婦強制同姓制度の維持を支持するのは、保守派だと言われている。

 日本の伝統を守るべきだと考える人が、夫婦別姓に反対なのだと言われている。

 それが本当だとして、不思議なのは……

 その保守派の人たちは、姓の大絶滅と家名断絶の大量発生が起こることについて、どう思っているのかということである。

 これから日本の人口が加速度的に減っていくのは、誰でも知ってる常識と言える。

 生涯未婚率が上昇の一途を辿り、一夫婦あたりの子供の数もまず増えることはないだろうことも、ほとんど誰でも理解している。

 これに伴い、日本の姓(名字)がそれよりも速いスピードで消滅していくのは、誰にでも想像できる。

 そんなとき夫婦の一方の姓をもう一方の姓に合わせて「変えなければならない」なんてことをしていれば、間違いなく消滅する姓は増えていく。

 おそらく現時点で「珍しい名字」とされている姓は、22世紀までにほとんど消えているのではあるまいか。


 これはまぎれもなく「家名の断絶」である。

 これは昔の日本人にとって、何よりも避けるべきことだったはずだ。

 真の伝統的日本人にとって、家名の存続の大切さに比べれば、「姓の一致による家族の一体感」の大切さなんて全くものの数ではない。

 そして実際、今ですらそういう苦悩、あるいは需要はあるのではないか。

 子供が女の子しかいない、しかもその親は一人っ子であるという家庭は多々あるが、そこにはやっぱりこういう苦悩と需要があるのではないか。

(どうせ二人くらいしかいない)我が子に、できるものなら別々の家名を継がせたい……

 これは伝統的日本人からすれば、当然の欲求であり需要のはずである。


 しかも昔なら他の家から養子を取ることもできていたが、今の日本にそんな「余分な」子などいない。

 (加えて、自分の血の繋がっていない子を育てるのは「無駄」であり「バカげたこと」だと、みんな普通に考えている。)


 人口減少は、しばしば「静かなる有事」だと言われる。

 確かに日本全体の人口はどんどん減っていくが、(それが日本全土で薄められて進行していくせいで)自分の身近ではそんな切迫した印象はあまりない。

 姓の絶滅も家名の断絶も、それと同じである。

 しかも「**という姓の人は、いま日本で何人いる」なんて統計は取られていないので、ますます我々はそれを実感することはない。

 しかしもちろん人口減少より速いペースで、それは進むに決まっている。


 「日本人の姓の数は、世界で一番種類が多い」という話は、日本人なら割とよく聞いているはずである。

 それが確かな事実かどうか私は知らないが、たぶんこれもまた「日本スゴイ」ネタの一つになっているのだろうとは思う。

 おそらく50年後も、「日本人の姓の数は、世界で一番種類が多い」とは言われているかもしれない。

 しかしその姓のかなりの部分が、今はもう実際に名乗っている人は一人もいないという「絶滅姓」「幽霊姓」になっている可能性は、非常に高い。

 私には、この事態を避けようとすれば(遅らせようとすれば)、夫婦別姓を可能にするくらいしか手はないと思う。

 要約するに、夫婦強制同姓制度とは、人口減少時代以前だからこそ機能していた「旧制度」とは言えまいか。

 この旧制度を続ける限り、日本人の家名断絶続出は避けられないと、わかりきっているはずなのだが……

 皆さん、別にそれでいいのだろうか。