6月4日午前10時15分頃、宝塚市の住宅街で、男女4人がボーガンの矢で撃たれているのが発見された。
うち70代(祖母)と40代(母)の女性2人が頭を貫かれて死亡、
40代の女性1人(おば)が首に、20代の男性1人(兄弟?)が頭に矢が刺さって重傷という。
逮捕されたのは、犠牲者の家族である男子大学生23歳であった。
彼は5本の矢を使い、「家族全員を殺害するつもりだった」と供述しているらしい。
ボーガンの矢を放って人を殺すというのは、ありそうで滅多にない手口である。
そして、そんなことをするのは男性に違いない、と誰もが思うような手口である。
女性殺人者でも刺殺や毒殺はするが、ボーガンなんて武器をチョイスすることはありそうにない――と、たいていの人は納得するだろう。
一方、男性であれば誰しも一度くらいは、ボーガンで戦う自分の姿を想像したことがあるのではなかろうか。
これには超有名映画『ランボー』の影響があるに違いないのだが……
しかしそれでも、ボーガン殺人は皆無に等しいほど起こっていないのだから、
この点は、世の中の大多数の人は「映画と(ゲームと)現実の区別が付いている」ことになるのかもしれない。
さて、この事件では、5本の矢を使って4人に命中させている。
しかも頭と首という、そんなに大きくもない目標に命中させている。
報道を読む限り、外したのは1本だけという命中率である。
しかしこれは、さほど驚くようなことではない。
なぜならむろん、かなりの至近距離(たぶん3メートル以内、いや1メートル未満かもしれない)で発射したに違いないからである。
死亡した祖母と母の2人が発見されたのは、自宅の台所であった。
このことだけでも、非常に近距離から発射したことは間違いない。
やや疑問なのは、一人目に命中させた後で矢を再装填する間、もう一人は逃げなかったのかということだが……
推測するに犯人は、台所で一人ずつ殺したのではなかろうか。
つまり、台所に一人でいた女性をまず殺し(まず間違いなく、背後から撃った)、
その死体を動かしておいて、
次に入ってきた女性を殺す(これは、ドアを開けた真正面またはドアのすぐ横で待ち伏せる)、という流れである。
そしてたぶん、矢が刺さったまま重傷となった他の2人も、同じように待ち伏せ方式で矢を受けたものと思われる。
重要なのは、その重傷の2人に、犯人はトドメを刺さなかったということである。
これは、犯人がボーガンは用意したがナイフは用意しなかった(あるいは、使えなかった)ことを示している。
そしてまた、「自分の手を血で汚したくなく」「かつ、汚す勇気はなかった」ことも示している。
なるほどボーガンは、恐るべき武器である。
銃と違って音はせず、しかも銃と変わらぬ殺傷力を持つ。
何よりも銃と同じく、自分の手を血で汚さないで済む。
欠点と言えば、再装填に時間がかかるのと、やや「かさばる」という点だろう。
(目撃者の証言によれば、「めっちゃ長い矢が刺さっていた」そうだから、きっと大型のボーガンなのだろう。)
しかしそれも、無警戒の相手を一人ずつ(物陰で)待ち伏せで殺していくなら、たいした欠点にはならない。
とはいえ皆さんは、やっぱりボーガンで人を殺すというのは、恐ろしいと同時に「卑怯だ」「陰湿だ」と感じるのではなかろうか。
昔の人は、「飛び道具とは卑怯なり」と言っていたものである(らしい)。
それにはやはり、自分の手を人の血で濡らす「度胸がない」という意味が込められているだろう。
今回の犯人は、やろうと思えば(首と頭に矢の刺さった相手に)間違いなくたやすくトドメを刺せたはずなのに、それをしなかった。
残り1本あったのに(家のどこかに刺さっていたはずである)、それを使おうとはしなかった。
もちろん、4人に命中させて精根を消耗させきってしまったのかもしれないが――
基本的にはやはり、同じ人間に(既に血を流している人間に)第2射を放ったりナイフを突き刺す気力はなかったのではないか。
そういう意味で、「飛び道具とは卑怯なり」と言っていた昔の人の感性は、
時代遅れと笑われるようなことでもなく、まっとうな感性と言えるような気がするのである。