6月2日、愛知県の大村秀章知事のリコールを目指す政治団体が設立された。(以下、敬称略)
団体名は「愛知の未来をつくる会」、
そして名古屋市長の河村たかし、大阪府知事の吉村洋文らも、この運動に賛意を示している。
これについて、ツイッター上では「#大村知事のリコールを支持します」「#大村知事のリコールに反対します」「#大村やめろ」「#大村がんばれ」などのハッシュタグが「交戦」状態となっているようだ。
大村知事がリコールに値するのかしないのか、私には特に意見がない。
おそらく愛知県民であっても、(実のところ)ほとんどの人はそうではなかろうか。
ここで書こうとするのは、日本の民主主義の性質である。
一言で言って今の日本の民主主義というのは、
「有名人民主主義」
「著名人民主主義」
なのではなかろうか。
つい最近起こった「検察庁法の改正(検事総長の定年延長)反対」運動では、芸能人らの連鎖ツイートによって世論が盛り上がり、ついに政権側は改正を見送った。
これは、国民の・民衆の・人民の、民主主義による政権側への輝かしい大勝利とみなすこともできる。
しかしそれが、「芸能人らの連鎖ツイートによる」という点については、どうだろう。
もし芸能人らの有名人がそんなことをしなかったら、世論は(少なくとも、ネット世論は)盛り上がっただろうか。
今から4年前、「#保育園落ちた日本死ね」という無名の一般人のハッシュタグが、一世を風靡したことがあった。
あれはたぶん、「世の中を動かした」うちに入るのだろう。
tairanaritoshi-2.hatenablog.com
しかし私は思うのだが、無名の一般人のツイートなり他の行動なりで世の中を動くことは、年々難しくなっていないだろうか。
世の中はますます、「有名人のツイートその他の言動」で動くように――動かされやすくなってはいないだろうか。
それはつまり、ネット社会の進展とともに、ますます「無名人の価値が下落し、有名人の価値が上昇する」ようになっている、ということである。
世の中の人はますます無名の人の存在を軽んじ、バカにさえし、
逆に有名な人の言動に注目しやすく、影響されやすくなっている……
いや、そればかりか、それこそが「社会道徳」であって「善いこと・当然のこと」と見なすようになっているのではなかろうか。
むろんこういう傾向は、今に始まったことではない。
いわゆる「タレント議員」が国政や地方政治の場に進出するようになって以来、ずっと言われてきたことではある。
しかし世の中には今、加速度的に
「有名人に影響されて動くことこそ、人としての当然のあり方」
「有名人の言動に乗っかって動いてこそナンボ、そうでないのは情弱」
みたいな道徳的雰囲気が確立つつあるのではなかろうか。
大昔の中国などでは、確かに「無名の一般人」が歴史を動かした実例がある。
しかしもしかしたら現代の日本では、そういうことはもう起こらないかもしれない。
あなたや私のような無名の一般人が何を言おうと動こうと、テレビに出ている有名人の言動の前では塵芥も同然――
そういうことが、当の一般人の一般常識的道徳として・正しいこととして、世の中に受け止められつつあるのかもしれない。
「有名人による民主主義」――
それが記述されない政治学の本は、もはやどうしようもなく時代遅れの本である、と言ってしまっていいのではなかろうか。