プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「バチェラー・ジャパン」やらせスクープ-リアリティ・ショーは「リアルなショー」のことである

 アマゾンプライムビデオでトップクラスの人気を持つという「バチェラー・ジャパン」を、しかし私は見たことがない。

 主題に興味がないからである。

 それはそれとして、「台本なし」を謳うその番組に実は「やらせ」があったことを、例によって文春砲こと週刊文春が報じた。

bunshun.jp


 おそらく、特にプロレスファンにしてみれば、「世間はまだこんなことで騒ぐのか」と呆れたような思いがするのではないだろうか。

 もちろん、台本はあるに決まっているのである。

 登場人物の発言や行動の一言一句・一挙手一投足を記した台本は「ない」にしても、大まかな筋書きは決まっているに決まっている。

 いったい世の中のバチェラー・ジャパン視聴者の中に、そういうのが本当に「ない」と信じて見ている人は何人いるのだろうか。

 出てくる女性がみんなホンマモンの素人だと信じている人が、はたしているのだろうか。

 いるとしたら、とても社会人とは思えない純情無垢さではあるまいか。

 それはまるで、エロビデオの世界のレイプもの・痴漢ものが、本当のレイプや痴漢を撮ったものだと信じるのに等しいほどの純情ぶりである。 
 
 あるいはまた、往年の――1960・70年代あたりの――「人食い人種映画」は、本当に人食い人種が本物の人肉を食しているのを撮ったものだ、と信じるほどの無垢さである。

 
 いや、しかし、私はもしかしたら世の中を甘く見ているのかもしれない。

 実際に世の中には、バチェラーに台本も筋書きもないと思って見ている人が、相当数存在するのかもしれない。

 何しろ、現在の一般世間では「やらせ」の代名詞みたいな認識をされているプロレスだって、かつては大勢の人が、あれは本当に勝敗を争っているのだと信じた時代があったのだから――


 ただ、バチェラーに決まったあらすじがあったからと言って、出演女性が素人でないからといって……

 私はバチェラーはウソツキ番組だとは思わないし、糾弾もしない。

 バチェラーは確かにリアリティ・ショーと名乗っているのだろうが、リアリティ・ショーとは「リアリティのあるショー」のことだからである。

 あるいは、そう解すべきだからである。
 
 つまり、「リアリティのある小説」と同じ意味だ。

 リアリティのある小説は、時に現実よりもリアルである。

 そのリアルさは稚拙な文章では表せないのと同様、素人出演者を使っては得られないものだ。

 本物の素人ばかりを使おうものなら、視聴者にとって見るにたえないブサイクな番組になるのは必定である。

 バチェラーも本場アメリカのリアリティ・ショーも商業番組なのだから、視聴率が取れるよう・話題になるよう、演出を加えなければそれこそウソだろう。

 
 しかし「台本なし」と謳っているのはやっぱりウソではないか、とも言えるが――

 これも冒頭に書いたとおり、「発言や行動の一言一句・一挙手一投足を記した台本は、ありません」というのならウソではない。

 バチェラーの宣伝文句の『台本なし・予測不能の75日間』とは、「舞台劇みたいなガチガチの台本はなく・視聴者にとって予測不能の75日間」の意味である。

 『人間、むきだし』とは、当番組はそういう剥き出しの人間の姿を見せることを目的として制作されています、の意味である。

 別に、演出や編集は加えてませんとは言っていない。

 要するにバチェラーは、「リアリティ・ドラマ」なのである。  

 テレビやネットでやってるリアリティ・ショーに属するタイプの番組は、全てことごとくそうである。

 純粋な素人を集め、何の取り決めもナシに番組を作るなんて、あまりにリスクが高すぎて(見るに耐えない番組になるのがわかってるから)社内稟議を通るわけがないのである。

 そして実際、「やらせ」があるとされたバチェラー・ジャパンは、商業的には大成功らしいではないか?

 もし「やらせ」がなかったら、到底そんなことにはならなかったろう。

toyokeizai.net


 
 だから私は、リアリティ・ショーやリアリティ・ドラマやプロレスをバカにする気にならないのである。

 いやしくも制作物というものを観客に、全く手を加えないナマのままを見せるのが素晴らしいことだとは、ぜんぜん思わないのである。

 そしてバチェラー・ジャパンは、別に「やらせ」を暴露されたからって人気がガタ落ちするわけでもないだろう。

 大部分の人は、「バチェラー・プロレス」というドラマを引き続き楽しんで見るのではなかろうか。

 そうでなければ、世の中で小説というものが今でも読まれているはずはないからである。