前回記事で書いた、神戸市立東須磨小学校「教師による後輩教師へのイジメ」事件について、
この事件の背景には「スクールカースト」ならぬ「職員室カースト」がある、と意見を述べた。
(⇒ スポーツ報知 2019年10月10日記事:尾木ママ、神戸教師いじめ背景は「職員室カースト」と指摘 「とんでもない悪ボス」は…)
学校やクラス内での生徒の序列を指す「スクールカースト」という言葉は、21世紀の日本でとても人口に膾炙している。
そしてまた、スクールだけでなくどこででもカーストはある、というのが、現代日本人の共通認識だろう。
実際こんなのは日本に限った話ではなく、アメリカの学校にもパラグアイの会社にも……
言うまでもなくイタリアのマフィアにもチェコの刑務所にも、カースト的な序列というものがないわけはない。
しかし、あえて言うならば――
もし人類からこういうカーストが廃絶される日が来るにしても、それが最も遅いのは、日本社会なのかもしれない。
なぜなら現代日本人は、こうしたカースト制を支持しているからである。
実のところカースト制を良いものであり、あるべきものだと思っているからである。
それはいったい、どういうことか。
これは「カースト」を「上下関係」という言葉に置き換えてみればわかる。
今でも日本人の多くは(大多数は、と言うべきだろうが)、上下関係というものを大切だと思っている。
上下関係は人の世にあるべきものであり、美しいものであり、人間の基本的道徳律の一つだと思っている。
要するに「人に上下がある」ことを、正しいことであるべき姿だと善意で信じているのである。
この「上下関係道徳」こそ、スクールカーストだの職員カーストだの会社カーストだのの強固極まるバックボーンとなっているのを、まともな人間なら気づかないわけにはいかないだろう。
中でも特に名指しするべきは、「先輩-後輩の上下道徳」というやつである。
いったいこれが今回の教師間いじめの背景でないなんて、どこのマヌケが言い張ることができようか。
もしあなたが「上下関係は大事、守るべきもの」と思っているなら、ただそれだけであなたは民主主義者とは呼べない。
当然ながら、平等主義者では絶対にない。
「いや、私はもちろん、人間は誰しも平等だと思っている」と口では言いながら、同じ口が「でも上下関係はあるよ、大事だよ」と言う――
これが矛盾でないとすれば、狂人の言でなくて何なのか。
なるほどたとえば軍隊では、上下の命令関係がなくては機能しないし戦争に勝てもしないだろう。
だがそれは、ただ目的のための便宜上、上下の命令関係を設定しているだけである。
会社の職位もそうであるし、他の何だってそうである。
その階級なり職位なりが便宜的に上下設定されているのであって、その肩書きを持つ人間自体の間に上下の関係があるわけではない。
ところがどっこい、物悲しいことに――
人間はいとも簡単にアッサリと、「上位階級」だの「先輩」だのの位置にいる人間は、それ故に全人格的に「下の者」より「上」だと考えちゃうのである。
下の者は「身分が下」だと脳内変換するのである。
それどころか、それこそがあるべき道徳だなんて……
これは「イイこと」だなんて、素直な純粋まっすぐの善人よろしく信じ込んでしまうのだ。
人はどこにでも上下関係を見る。
なければ勝手に設定する。
「人はみな平等です」と言いながら、「上下関係は大事です、守るべき道徳です」と本気で言う。
もしあなたがこの世からカースト制をなくしたいなら、上下関係が大事だなんて人たちの撲滅を目指すべきである。
でもやっぱり上下関係はあるべきだ、と思うなら、それは即ちカースト制や封建身分制を擁護しているということである。
私としては、こういう上下関係主義者がいなくなれば、日本は今とは段違いに活力に溢れた国になると思う。
人口減少による衰退など知らぬ、世界をリードする国になれるとさえ思う。
とどのつまり、上下関係主義者というのは、日本に仇なす国賊だと思うのである。