プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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京アニ放火大量殺人事件の示す予兆-銃なき日本で「放火による大量殺人」志願者は増えるだろう

 2019年7月18日は、日本のアニメ界にとって最悪の日となった。

 2012年に茨城県でコンビニ強盗したことのある41歳の男が――

 京都アニメーションのスタジオがあるビルに入って「死ね」と言いながらガソリンを撒き火を付け、18日22:00現在で33人を死亡させたのである。

 もちろん、放火事件としては平成・令和を通じて最悪の犠牲者数なのだが……

 同時にこれは、「一回の大量殺人」としても、平成・令和どころか明治・大正・昭和を通じてトップクラスの数である。


 41歳の犯人はハンマーと包丁も持参していたらしいのだが、それは全く使わず、受付ロビーに入ってすぐ火を付けたようだ。

 結果的には、(むろん犯人にとっては、)それが「功を奏した」と言えるのだろう。

 今現在、犯人も酷い火傷を負って意識不明の重体らしいが、彼にとっても火の回りの圧倒的早さと勢いは想定外だったと思われる。

 たぶん彼、猛火の中ではありながら、その中で武器を振るい人々を殺傷していく自分の「勇姿」を夢想していたのではあるまいか。

 

 ところで私は昔から、「なぜ放火はもっと起こらないのか?」と疑問に思ってきた者である。

 これは当然のことながら、「なぜ放火による殺人は、もっと起こらないのか?」という意味も含んでいる。

 とにかく放火というのは、極めてイージーでそれこそ誰にでもできる割には、「起こっていて然るべき数」よりはるかに実際の発生件数が少ないように思えるのである。

tairanaritoshi.blog.fc2.com



  

 周知のとおり、世界的にも治安が良いと言われているこの日本にも、大量殺人願望を持っている人間は複数いる。

 それが実行されたというニュースを聞くのも、今の我々には珍しくない。

 それなのに――

 日本の大量殺人と言えば、「刃物」で通行人を刺すか、「車」で轢き殺す/跳ね殺すの2パターンくらいだ。

 もちろんそれは、一般人が銃を手に入れることができないからだが……

 しかし、「放火」という誰でも簡単にできる(はずだ)手段は、なぜか選ばれることが少ない。

(おそらく、大量殺人願望者にとっては、その不確実性が気になるのだと思われる。)


 だがそれも、今までの話である。

 放火などという、低コストで大量の人間を殺傷しうる手段が、今まであまり使用されてこなかったことの方が不思議なのだ。

 何と言っても今回の事件で、全国の大量殺人願望者は、その「効果」を知ってしまった。

 自殺を大きく報道すれば、それに釣られて自殺者が増える――

 というのはあまりにも人口に膾炙した懸念なのだが、

 放火殺人の効果がこれほど高いと報道することは(むろん、報道しないわけにはいかない)、

 全国に散らばり埋もれる大量殺人志願者を触発しないわけにはいかないだろう。


 それにしても今回の犯人が捕まる際に叫んだという、

「(京アニが?)パクリやがって、パクッてばかりいやがって」

 の真意は何なのだろう。

 それは彼がいわゆる「売れない個人作家」のようなものであって、自分が考えたアイデアやキャラを京アニのアニメの中で使われたから、それに対する恨みや憤りなのだろうか。

 それとも(私は全然知らないのだが)、京アニには他社のアニメをパクっているなんていう中傷が、ネット上でよくなされているのだろうか。


 何にせよ、こういう事件があるからこそ、日本人の大半は死刑制度に賛成なのである。

 そして私には、こんなこと提案しても採用される可能性は絶無とはいえ、それでもつくづく思ってしまうことがある。

 それは、死刑とは「死刑囚が人を殺したのと同じ方法で執行する」ようにしたらいいのではないか、という意見である。

 今回の犯人が生き延びて死刑になるなら、それは火炙りの刑で生きたまま焼く、ということだ。


 世の中には、どうしても人を殺したくなる人がいる。

 これはもう、生まれつきにそういう衝動があって日々の生活の中で芽吹いてくるものだから、どうしようもない。

 しかし「死刑になったら自分も同じ方法で殺される」となったら、同じ殺すにしても「痛くない」方法で殺そうとするのではないか、と思うのだ。

 こうした死刑制度にこそ抑止力がある、と感じる人は、決して少なくないのではないだろうか。


 私はアニメは見ないが、しかしそんなことはどうでもよい。

 今回の事件で犠牲になった方々には、哀悼の念を感じないわけにはいかない。

 これは、あまりに酷すぎる事件である。

 しかしまた、こんな事件がこれからも起きるだろうし、我々はそれへの備えもしなくてはならない、ということもまた、痛切に感じるのである。