平成最後の日、2019年4月30日。
おそらく大半の日本人がそうだと思うが、まるで大晦日のような感覚である。
私にしても、RIZINを見ていないのが不思議なように感じてしまう(笑)
4月30日なんていう何でもない日なのだが、まるで1年の終わりのような――
いや、それよりもっと大きな終わりのように感じるのがまともな感覚というものだ。
4月30日は、全国的に雨か曇りだったようである。
思い返せば、昭和最後の日の1989年1月7日もこんな天気だった。
あのテレビのブラウン管(液晶テレビではなかった)の真っ黒な地に「天皇陛下崩御」と大きな白抜き文字で出たときから、もう30年以上経つのだ。
そう思うと、やはり元号は時代の区切りとして心情的・記憶的にあった方が良いのだろう。
こんなことを言うと不敬だと思われてしまうが――
新天皇はいま59歳、おそらく令和の時代は30年も続かない。
菅義偉官房長官も「今回の退位は前例になる」と言っていたことだし、きっと次も生前譲位になるはずである。
ということは、元号は20年から30年で切り替わることになるが……
これは時代の変わり目として、かなり妥当な間隔ではあるまいか。
ところでこのブログでは、仕事の文書なんかに「元号だけ」を書くことを国賊行為だとか言ってきた。
そんなことは明らかに「何年経ったか」「何年前か」調べなきゃわからなくさせ間違わせ、日本の仕事の効率をどうしようもなく落とすからである。
しかし同時に言ってきたように、別に元号を否定するわけでは全然ない。
先に述べた心情的・記憶的なこともあるが――
それはそれとして、世はまさに「令和フィーバー」「さよなら平成フィーバー」になっているではないか?
あなたも他の誰も彼も、街角で「平成最後の大セール」「改元記念セール」なんて文字を見なかったはずはない。
私としては、こんなときこそ「改元の経済効果」というやつを出してほしかったものである。
つまり明らかに、改元すなわち元号の存在はビッグ商業イベントになっている。
こんなのなくしていいんですか、と思わない人っているのだろうか。
きっと反天皇の人たちや反元号の人たちは、この改元フィーバーぶりをどうしようもなく苦々しく思っているはずである。
しかし現実はこのとおり、やっぱり多くの国民は改元と代替わりにフィーバーするし、少なくとも何らかの感慨を抱きはするのである。
これはやっぱり素直に見て、反天皇派の敗北と言うべきではなかろうか。
戦後74年も経ってもまだ反天皇派がこのていたらくであるのは、左翼陣営にとってつくづく反省すべきことだろう。
私は平成は、非常に良い形で幕を閉じたと思う。
これからは生前譲位が慣例になるとも思う。
結局このたび天皇が生前譲位の意思を通したことは、メディアにとっても経済界にとっても国民全般にとっても、良いことづくめだったと思う。
私は天皇がそれほどまでに聖人みたいな人格者で、知力も人並み優れているとは思わないが――
しかし人並み優れて善良な男性だったということくらいは、思ってもいいのではないかと思う。
そして加えて、202年ぶりの生前譲位をするという決断は、結果的に「大当たり」だったのである。
それでは、去りゆく王に、花束を――
と言ったらこれまた不敬なことかもしれないが、そういう気持ちになっている国民は非常に多いはずである。