プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

社会、ニュース、歴史、その他について日々思うことを書いていきます。【プロレス・格闘技編】はリンクからどうぞ。

「フィギュアスケートは金持ちボンボンのやること」批判がないのはなぜか?-「生まれつきの能力」に全面降伏する時代?

 フィギュアスケートの新女王として、弱冠16歳の紀平梨花が絶賛を集めている。

 そしてフィギュアスケートとは、今の日本で「最高峰のスポーツ」と庶民にまで思われている存在に成り上がったのかもしれない。

 それはそれとして、今から述べるのは別に批判ではない。

 ただ「素朴に思うこと」を淡々と書いていく。

 
 基本的にフィギュアスケートとは、金持ち一家の子女のやること(親がやらせること)である。

 こういうものには当然に「あんなの金持ちのお遊戯だろ」という批判や悪口が浴びせられるものだが――

 この有象無象が好き勝手なことを書き込むと思われているネット上にさえ、そんな意見は全然見られないのはなぜなのだろう。

(むろん私は、四六時中ネットを見まくっているわけではないが……)


 それでいて「格差」や「貧困」に関する記事は毎日毎日大量にアップされているというのに、なぜフィギュアスケートには――

 いやそれだけに限らず、誰々選手の年俸が何億だとか、誰々選手のCM収入は何千万だとか、

 およそスポーツ選手が庶民の何十倍何百倍の稼ぎを得ることについては、なぜ全く批判の声が上がらないのだろう。

 ネットには現に貧困であったり、貧困の存在に憤りを感じている人が夥しい数いるはずなのに、彼らのほとんど誰一人としてスポーツ界の「金持ち批判」を行わないのはなぜだろう。

 ネット上の百人百出の意見の中には、そんなのがあって当然なのに……

 これは深く考えるまでもなく、素直に不思議なことのはずだ。


 その一因としては、なぜか日本人も(たぶん)世界の他の人たちも、ことスポーツについては異様に寛容だ、ということがあるのだろう。
 
 あなたはたとえ共産党社会主義政党でさえ、スポーツ選手の高額報酬を批判する声を聞いたことがあるだろうか。

 そういう声がないのはおそらく、そんなことを言えば世間から叩かれまくるからである。

 おそらくは、本物の貧困層からさえ共感が得られないからである。


 そしてなぜ共感が得られないかと言えば、それは――

「自分の才能で(ついでに努力して)勝ち取った成果について文句を言うのは、見苦しい」

 という道徳観が、世界に広く広まっているからだと思われる。

 しかし同じことは、総資産何千億円とか何兆円とかいう超大金持ち層――昔で言う「資本家」――にも完璧に当てはまる。

 なのに今でも資本家は、いやそれに満たない程度の会社の「経営層」ですら、一般庶民の敵視から免れていないというのは、思えば奇妙なことだろう。


 もっとも、資本家を庶民が敵視するというのは、今となっては古い認識かもしれない。

 なぜなら書店にもネットにも、いわゆる「天才起業家」「天才経営者」を褒め称える本はかつてなく広まっているからである。

 むろんそれは、庶民が現実に買っているからそうなっている。

 売れ行きがいい(と出版社が判断する)から、続々とそういう本が出る。

 
 ここから思いつく感想は――

 どうやら今の日本も世界も、人間の「才能」というものをケチを付けずに賞賛することが道徳になっている、ということだろうか。

 そこに格差批判や個人崇拝批判を入れてくることはほとんどタブーで、

 そんなことをする奴は良く言って無粋、悪く言えば「とんでもない下劣な奴」と評価される、ということである。

 つまり現代の、少なくとも日本を含む先進社会は、人間の「生まれながらの能力」を賞賛せねばならない――そうしないのは反道徳的である――社会になっているのだろう。

 これすなわち、たまたま金持ちの家に生まれたり優れた才能を持って生まれてきた人間が活躍するのを、批判したり揶揄してはいけないということになる。

 何のことはない、昔は生まれながらの「家柄」で決まっていた人間の運命が、現代では生まれながらの「能力」や「幸運」で決まるということだ。

 そして昔は「家柄批判」は許されもしないし、そもそも考えられもしなかったのと同様――

 現代では「生まれつき批判」はネットに書き込むことも雰囲気的に許されないし、そもそもそんなこと頭に思い浮かべてもいけないのである。

(そんな奴は、性根がゲスだと自己批判すべきだということになる。)


 素朴に考えて、これは格差や貧困を固定化したり肯定化する雰囲気である。

 しかしながら先に言ったように、そういう雰囲気を批判する人は、ネット上にさえいないのである。

 金持ちや優秀能力者が世界的に大活躍するのを見れば、まともな感性を持つ普通の人間が皮肉の一言でも言いたくなる/書き込みたくなるのは、実に当たり前のことだ。

 それでいて現実はそうなっていないのだから、現代人はやっぱり「生まれつき」というものに全面降伏している、ということになるのだろうか……