ドライブレコーダーの売上を激増させたという、あの「東名高速道路あおり運転死亡事件」の公判が、12月3日に始まった。
検察側は「危険運転致死傷罪」で起訴しているが、しかし被害者死亡時の状況は、被害者も加害者も「車から降りているとき」だった。
そこで第二の矢として「監禁致死傷罪」を用意しているが、「高速道路上で胸ぐらを掴む(腕を掴む)」のを監禁と言うのは、いかにも常識的には無理がある。
よって、弁護側が無罪を主張しているのは当然だが、本当に無罪になるのではという観測も出ているようだ。
しかし私は、無罪にはならないだろうと思う。
「感情を排して感情を推し量る」というのも変な言い方だが――
いくらなんでもこの事件の裁判員(一般市民)は、この被告を「無罪にしないと仕方ない」とは誰一人思わないはずである。
(この点、有罪率100%と言っても過言ではない。)
そして裁判官の方も、もちろん「コイツは有罪にしないといけない。無罪にはできない」という結論が、まず先にあると思う。
だいたい「高速道路上で胸ぐらを掴むor腕を掴むのを監禁と呼ぶには無理がある」と言っても――
法律の世界って、「この条文の****という文言の意味には、@@@@が含まれる」というような、
普通に読めば誰が読んでもそんなこと思いつかないような解釈を、昔からしてきているものである。
(少なくとも私は、むかし法律の勉強をしたときに、そう感じた。)
そしてまた法律の世界って、「結論ありき」の世界でもある。
妥当な結論や落としどころがまずあって、それに持って行くための理屈付けをしていくというのは、むしろ裁判の王道のような気がする。
(特に、公害訴訟がそうだ。
あれはまず「企業にどうやって責任を負わせるか」という結論が先にあり、そのための理論構成を組み立てている。
むかし法律の勉強をしたとき、当の教科書がそういう書き方をしてあった。)
さらに付け加えて言えば、裁判官だって、こんな注目される裁判でこんな被告に無罪判決なんて最初から出したくないのはわかりきっている。
いくら中立公正であろうとする裁判官にしても、そんなことで世間からボロクソ叩かれるのはイヤである。
だから、無罪というのはないだろう。
もっとも、有罪になれば弁護人は控訴する道を選ぶだろうが、その弁護人の言い分を叩いたってしょうがない。
弁護人とはそういう「仕事」である。
どうせ本件の弁護人だって、いや、こういう被告人に付く弁護士のほとんど全員が――
自分の弁護する被告人のことを「このクズが」と思いながら仕事しているだろうことは、簡単に推測できるではないか。