プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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北センチネル島民、米人宣教師を即刻射殺する-宣教の権利と孤立の権利

 インド洋はアンダマン諸島北センチネル島と言えば、世界の「文明未接触部族ファン」にとって聖地みたいなところである。

 そこにはいまだ文明と接触しない部族が、10数人とも150人とも住んでいると言われる。(南アジア系の黒人種)

 彼らは近づく者は容赦なく殺し、その島を領土にしているはずのインドの海軍さえ立入禁止になっているという。


 その北センチネル島に上陸したアメリカ人男性宣教師ジョン・アレン・チャウ氏(27歳)が、

 上陸した途端に無数の矢を浴びて射殺されるという事件が発生した。

 

www.cnn.co.jp

 

www.afpbb.com


 宣教師が先住民に射殺されるなんて、それだけ聞けばまるで16世紀の話のようだが、これはつい先日の話である。

 殺されたチャウ氏には悪いが、なんだかロマンを感じさせる話ではないか。

 そして実際、このニュースを見た人の大部分は、

「やっぱりこうでなくちゃ」

「これからも侵入者はこの調子で全部射殺していってほしい」

 と思ったのではないかと思われる。

 この文明社会から全然無縁の人類が、ずっとこのまま世界のどこかにいてほしい――

 というのは、何だか世界万民共通の願望のような気がする。


 それにしても北センチネル島ウィキペディアで見てみると、その面積は72平方キロ、全島これ森林といった有様で……

 人口密度は人口400人として1平方キロ当たり5.5人、人口20人として0.28人。

 これほど人口密度が薄いのに「上陸した途端に何本もの矢を浴びせかける」ことができるのは、普段から海岸付近を生活場所にしているからだろうか。

 それとも1960年代から90年代にかけてはインド政府から接触の試みがされていたことがあったそうだから、

 それ以来ずっと海岸の警戒態勢を敷いている、ということだろうか。


 ちなみに北センチネル島72平方キロとちょうど同じなのが、八丈島の72.62平方キロである。

 八丈島の海岸を全周警戒して、侵入者が来たら直ちに集結できるようにしておく――

 これはとても難しいことだと思うのだが、もしかしたら北センチネル島に「船で侵入できる部分」はとても限られており、そこを数人で見張ってさえいれば雨あられと矢を浴びせることができるのかもしれない。

(たぶん、一人一人が矢を速射できる技量があるのだろう。)


 ところで北センチネル島民だが、もし本当に全人口が20人を切っているとすれば、これはもう絶滅寸前と言ってよい。

 こんなに少なくてはとても21世紀は越せまいと思うのだが……

 しかしもし世界中の人にアンケートを採れば、彼らの孤立をぜひとも守るべきだという意見が9割くらい行くと思われる。

 これはもちろん、彼らが絶滅してもしょうがないということに繋がる。

 だからといって超小型ロボットを送り込んで彼らの生態や言語を記録しようとすれば、それは「盗撮」ではないかという人権問題が沸き起こってくるのは想像に難くない。

tairanaritoshi-2.hatenablog.com


 ではこれとは別に、彼らに「宣教をする権利」はあるだろうか。

 今の日本人なら「そんな権利はない。要らぬお節介で彼らに迷惑をかけるのは悪い」と即答する人がほとんどだろうが――

 しかしこれがキリスト教の宣教師でなく仏教の伝道師とかであれば、また感想は変わってくるようにも思う。

 さすがに親鸞法然日蓮みたいな熱情の士が法を説いて回るのを、否定するのはおかしいように感じるからだ。

 これってもしかして、欧米人にとっては日本人よりはるかに深刻な問題ではないだろうか。

 
「まだ神の道を知らない人たちにこそ、命がけでそれを伝えなければならない」


 というのは、現代日本人にこそバカにされたり「独善的」と批判されるが――

 しかし一方で、そういう決意と行動を涙なくしてみられない人も、潜在的には非常にたくさんいるはずである。

 
 一部報道によると、チャウ氏は矢で射られてもなお歩き続けようとしていたという。

 もしこれが宗教的熱情によるものなら、見上げた宣教師魂と言わねばならない。

 
 北センチネル島民の孤立を尊重し盗撮も犯さず、彼らの言語も記録することなく滅びるままにしておくのが善か。

 彼らをキリスト教化し、文明世界の一員とするのが善か。

 南太平洋の小さな島国などほとんどキリスト教化しているが、それはしてはならないことだったのか。

 文明未接触部族に宣教するのは、道徳的にやってはならないことなのか。

 その情熱を止める権利は、どうやって正当化されるのか。
 

 これはまた、現代世界の一つの難問である――