「LGBTには生産性がない」との衆議院議員・杉田水脈の文を掲載して反響を呼んだ『新潮45』8月号だが、
10月号(9月発売)には「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」と題した特集を組んだ。
もちろんネット上ではボロクソの批判を浴びる。
新潮45編集部の人間すらこれに反対するツイートを行い、
新潮社の社長すら「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現があった」とする声明を出すくらいだった。
そして9月25日、新潮45は休刊することを発表した。
この「休刊の辞」は誠に正直で、
「ここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていたことは否めません。」
なんて書いてある。
要するに「ちょっとトガッたことを載せないと、読者が確保できなかったから無理が生じた」
ということである。
まるで集客に苦しむプロレス団体のことを言っているようだが、もちろん世の出版社もまた、「言論興行」団体に他ならない。
言論機関の矜持とかなんとか言ったって、売れなきゃ話にならないのである。
そういう意味では、雑誌の方向性があからさまに右曲がりに曲がってしまうのも、同情できると言えば同情できる気もするのだ。
さて、自社の社長にまで支持されなくなっては「ないものねだり」と言うべきだろうが――
やはりここは新潮45、猛然と世の批判に反撃してほしかったものだ。
それをせずに休刊してしまったのは、とどのつまりは世間の批判(=世間の雰囲気)に屈したということに他ならない。
これはもちろん、反・反LGBT勢力にとっては大勝利で快哉を叫ぶべきことなのだろうが……
しかし一雑誌を論理戦で屈服させるのではなく、物理的に廃刊(と言っていいだろう)に追い込んでの勝利というのは、まったくのところ政治権力者流の勝ち方と言われても仕方ない。
もしあなたが日本でのタトゥー容認に反対する人(こういう人の方が今は多数派のはずだ)で、
もし日本にタトゥーを美化しその容認を訴える雑誌があったとしたら、
その雑誌が世間の批判によって廃刊に追い込まれたとしたら、
やっぱりあなたは「勝った」と思うのだろうか。
いや、勝ったと思うのはわかっているし「やったぁ」という気分になるのもわかるのだが、そういうのは本当の勝ちと言うのだろうか。
世に右翼(系)雑誌なんていくつもあるが、別にあったっていいと思う。
左翼(系)雑誌だって、別にあったっていい。
もしその雑誌の載せていることが奇矯でズレててトンチンカンなものだとするなら、いずれその雑誌は「アブナい奴が読むアングラ雑誌」という雰囲気ができてくるはずだ。
世の中をそういう雰囲気に持って行くのが本当の勝利であり、それで自然廃刊されるのが本当の勝利というものだろう。
ところでこれは、前からこのブログでも書いてきたことなのだが……
LGBT容認派の人は、世界中の非常に多くの国がLGBTどころか女性一般を差別している(それが制度化されている)ことについては、どう思っているのだろう。
(一応言っておくと、私はLGBT容認派である。
ただし、自分自身がLGBTの人に告白なんかされたら迷惑だとは、はっきり思う。
もちろんLGBT同士が愛し合うのは全然OKだ。)
イラン、イラク、サウジアラビア、イエメン、パキスタン、アフガニスタン――
これらの国は、同性愛者は死刑だという。
インド、ミャンマー、パプアニューギニア、それにエジプトはじめアフリカの沿岸部の国は軒並み、
同性愛者は無期懲役のこともある懲役刑に処せられるという。
我々はこういう国々を、放っておいていいのだろうか。
こういう国々は新潮45よりはるかにずっと叩かれるべきで、公然と見下されるべきではないのか。
それともよその国だから、宗教だから、内政干渉・文化干渉になるから、それはそれで仕方ないのだろうか。
我々はLGBT十字軍を結成して、こういう国々の同性愛者やLGBT(プラス女性)の解放戦争を仕掛けなくていいのか。
いや、そこまでは言わずとも――
「同性愛者やLGBTへの差別を止めなければ、円借款には応じない」くらいのことは、政治家に求めてもよいのではないか。
こういう言説が、広大なはずのネットでさえほとんど全く見られないのは、実に奇妙なことである。
新潮45が休刊になったことなんて、これに比べれば微々たる「勝利」だと思うのだが……