淡路島は南あわじ市で2015年に見つかった松帆銅鐸は、紀元前4~2世紀頃に埋納されたらしいことが、科学分析でわかったらしい。
上記引用記事によると、銅鐸には、それが埋納されるという二度のブームがあったらしい。
一度目は、実際に叩いて音を鳴らす「聞く銅鐸」が大量に埋納された紀元1世紀初め。
二度目は、大型化して楽器ではなくなった「見る銅鐸」が大量に埋納された紀元2世紀後半から3世紀前半。
このうち二度目は有名な話だが、一度目の方はあまり一般に知られてないのではなかろうか。
なぜ二度目が有名かというと、それが歴史が古墳時代に移るターニングポイントになっているからである。
そして “邪馬台国本” を好んで読む人にとってはおなじみの話だが――
二度目の銅鐸大量埋納というのは、銅鐸勢力が非銅鐸勢力に滅ぼされたことを表しているとされている。
すなわち、
(1) 滅ぼされた銅鐸勢力が、大切な祭器を奪われまいと自ら銅鐸を埋めて隠した
(2) 滅ぼした側の非銅鐸勢力が、現住民の銅鐸を集めて埋めた
の、どちらかだとされている。
これすなわち、「九州の邪馬台国が近畿に攻め込んで征服した、そして大和朝廷になった」という邪馬台国東遷説の有力な論拠になっているのである。
しかし、今回の科学分析が正しいとすれば、銅鐸の埋納には三度のブームがあったことになる。
それも紀元前という古くからである。
倭国王「帥升」が後漢に朝貢したとされるのは、西暦107年(2世紀初頭)。
「倭奴国」が例の「漢委奴国王」の金印を授けられたのは、西暦57年(1世紀半ば)。
しかしそれよりさらに古い紀元前4世紀~紀元前2世紀には、近畿の淡路島にすでに銅鐸勢力がいたことになる。
すなわち近畿には、すでに銅鐸を大量生産するほどの勢力があった。
これは、邪馬台国近畿説にとって非常に有利な要素である。
しかしながら魏志倭人伝には、この非常に印象的なはずの銅器のことが、一言も出てこない。
となるとやはり、邪馬台国は近畿とは関係のない、九州の別勢力なのではないかと思えてくる。
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それにしても「銅鐸埋納には三度のブームがあった」とすれば――
「九州勢力(邪馬台国)の東進によって、近畿の銅鐸勢力は滅ぼされた」とする邪馬台国東遷説は、はなはだ怪しく見えてこざるを得ない。
古墳時代直前の銅鐸埋納は、銅鐸勢力が二度も繰り返してきた自発的な行為ないしブームの最後のものであって、
つまり銅鐸勢力内の自発的な出来事であって、彼らが征服されたかどうかとは何の関係もない話だった、という可能性が強まるからだ。
それは当然、銅鐸勢力がそのまま古墳時代の勢力につながっている……
すなわち大和朝廷は銅鐸勢力の発展形である、天皇家の祖先は近畿から発生した、という話につながっていくことになる。
そしてこれは有名な話だが――
日本の国生み神話において、日本列島の中で真っ先に生まれたのは、当の淡路島なのだ。
中でも淡路島の南端っこに浮かぶ「沼島」(ぬしま)という小さな島こそが、日本最初の国土である「オノゴロ島」の最有力候補とされている。
(そして沼島は、南あわじ市の領域である。)
普通に考えてこれは、淡路島こそ日本の(つまり天皇勢力の)発祥地だ、ということである。
しかし、これがまた不思議なことに――
その日本神話には、天皇家の発祥地(始祖・神武天皇の故郷)は九州、それも南九州であるとはっきり書かれている。
(その神武天皇は東征して近畿を征服した、とももちろんはっきり書かれている。)
いったい天皇家及び日本の起源は、九州にあるのか近畿にあるのか。
淡路島は現代日本発祥の地なのか、それとも超重要な通過点だったのか。
(確かに、九州勢力が瀬戸内海を東進して近畿を征服するなら、淡路島は超重要な拠点であることに間違いない気がする。)
私としては、邪馬台国はやっぱり九州の国だったと思う。
しかしその頃、いや邪馬台国(紀元3世紀の国だ)よりさらにはるかに遡る時代――
近畿なかんづく淡路島にはすでに、銅鐸を大量埋納するほどの勢力が存在した。
いったい大和朝廷以前の日本列島は、どんな感じだったのだろう。
銅鐸勢力圏の人たちは紀元後3世紀半ばになって、自発的・内発的に(非常に長く続いた伝統であった)銅鐸文化を捨てたのだろうか。
(こういうことは、別に珍しくないありふれたことである。
魏志倭人伝にも「倭人はみんなイレズミをする」と書いてあるが、すでに古墳時代には普通の人間はしなくなっていた。
明治時代の日本も外国に征服されなかったが、普通に洋服を着るようになった。)
日本の古代史は、依然として濃い霧に包まれているようである。