プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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ホーキング博士の死と「天才」と「障害者・女性その他諸々への差別の愚かしさ」

 3月14日、世界で最も有名な科学者、スティーブン・ホーキング博士が死去した。享年76歳。

www.gizmodo.jp


 彼がこんなにも有名なのは――宇宙論や科学全般に何の興味もない人たちにまで知られているのは――、

 言うまでもなくあの車椅子姿と、あの容姿からだろう。

 世界に名高い天才科学者があんな姿だというのは、一度見たら忘れられないインパクトがある。

 プロレスラーで言えばアンドレ・ザ・ジャイアントアブドーラ・ザ・ブッチャーのようなものである。

(完全に蛇足だが、そのインパクトゆえに「ホーキング青山」なんていうモノマネ芸人まで生み出した。)


 さて私は、ホーキング博士が重度障害者でありながら天才だというのはもちろん認めるが(どうやって否定するというのだ)、

 だからといっていわゆる「尊敬」をするわけではない。

 驚嘆すべきはその才能・能力であって、たまたまそれを持って生まれてきた人間に対してではない、と思うからである。

 
 思えば人類は今でも何十億人も生きているし、今までも何十億人と生まれて死んできた。

 その中で何らかの分野の天才が何十万人と存在したのは(これからもどんどん出てくるのは)全く当たり前の話であって、何も目を剥くようなことではないし、仰ぎ見るようなことでもない。

 思えばフィギュアスケートさえやっていれば羽生結弦を凌ぐ天才スケーターになっていた人が、今までも何万人いたかわからない。

 そういう人が古代メソポタミアにも古代中国にも古代インカにも、何百人・何千人もいたに違いない。

 もちろんホーキング博士のような天才が、今まで何百人となくただの農民や遊牧民として名もなく一生を終えてきたかわからない。

 これは、考えてみれば空恐ろしいことである。

 もったいなさ過ぎることである。

  
 そしてホーキング博士がもし古代から近世にかけて生まれていたら、(その身分にもよるが)まず間違いなく世界に名を馳せる天才学者にはなっていなかったことも疑いない。

 あれほどの障害・病気を発症したなら、おそらく家族に押し込められるか、さっさと殺されていたものと思われる。

 いや、現代に生まれていても、もし中央アジアの寒村で生まれていたらどうなっていたことか……


 現実のホーキング博士は、結婚して子どもも3人いる。

 しかしもちろん、現代でなければ自然選択で除去されていた(むろん遺伝子も伝わらない)はずの存在である。

 しかしそうなっていたら我々は、一人の天才を人知れず失っていたというわけだ。

 これについて、あの相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖などは、どう考えているだろうか。

 「あんな障害者は可哀想だから殺してやるべき」だが、「ホーキング博士くらいになると例外」なのだろうか。

tairanaritoshi-2.hatenablog.com


 なるほどホーキング博士がもし天才でなかったら、生かしておく価値はないのかもしれない。

 植松が言うように、無駄飯食いの「可哀想な存在」なのかもしれない。

 しかしそれを言うなら、人間誰しも「無駄飯食いの可哀想な存在」である。

 別に誰が死んだって世界は続くし、誰だっていてもいなくてもいいのである。(違うだろうか?)


 それにしてもホーキング博士を救い、世界で最も有名な科学者にまで押し上げたのは、現代という社会であった。

 中でも特に、国民全てに基礎教育を受けさせる義務教育という制度の存在が大きい。

 これにより、「あたら天才なのに、そんなこと誰も気づかず貧民として死んでいく社会」から、人類は相当程度脱却できた。

 冒頭でも言ったように、天才及び有能者というのは、これからもボコボコ出てくるのである。

 それを掬い上げることができれば、取りこぼしのないようにできれば、人類はますます加速度的に発展していく。


 そしてもちろん天才・有能者の中には、障害者も女性もいるのである。

 これはつまり、障害者や女性を差別・排除・抹殺するような社会は、そうでない社会に比べて圧倒的に不利だということになる。

(そしてこの理由により、厳格イスラム社会はいくら猛威を振るおうとも欧米に勝てないはずだ。

 社会の半分を占める頭数を活用しないで――その中の天才と有能者をもったいなくも放棄して――、競争に勝てるわけがない。)

 

 ホーキング博士は、疑いなく『サイエンススーパースター列伝』に載る人物である。

(いずれ学習まんがになることも間違いない。)

 こういう人を生かしておくこと、活躍してもらうことができる社会こそ、世界覇権国になる資格があると言えるだろう。