期せずしてほぼ同日に、「学生の制服」について好対照とも言える二つのニュースが報じられた。
一つは東京中央区は銀座の泰明小学校が、この4月からイタリアの高級ブランド「アルマーニ」デザインの(一式9万円する)制服を導入する、と発表したことである。
もう一つは、この4月に開校する千葉県柏市立の「柏の葉中学校」が、男女とも“ブレザーにスラックスかスカート、ネクタイかリボン”を選択して着用できるようにする、というものである。
つまり柏の葉中学校では、男子でもスカートとリボンを着用して通えるのだ。
体と心の性の不一致に悩む性的少数者の生徒に、配慮したものだという。
まずアルマーニ制服の方だが、ハフィントンポストの校長の文を読む限り――
泰明小学校も特認校(校区外の生徒でも通学を選択できる)ではあるが公立校の御多分に漏れず、問題児が多いような様子である。
その解決策の一つとして、「高級ブランドの服を着せれば素行が良くなるのではないか」との思いつきを実行しようとしたようだ。
いわゆる“形から入る”というものだろうが、私はこれを一概に「短絡的だ」とか否定しようとは思わない。
形から入る、というのは、確かに効果があることもあるからだ。
そして別に最初からアルマーニに決めていたというわけではなく、こういう話をまともに聞いてくれた“高級ブランド”はアルマーニしかなかったらしい。
要するに泰明小学校の校長が本当に言いたいのは、「質の悪い生徒は来てくれるな」ということだろう。
しかし何もしなければその願いは叶わないので――
「値段の高い制服で“壁”を設ければ、質の悪い子の家庭はウチの学校に通わせるのを断念するはず」という考えなのだろう。
つまり9万円の制服に恐れをなしたり憤慨するような貧乏人の子は、質が悪い(可能性が高い)ということである。
これはとんでもなく問題のある考えに聞こえるが、しかしでは、就職活動でよく言われる「学歴フィルター」とそんなに違っているだろうか?
学歴フィルターは当然ながら、「勉強のできる人(偏差値の高い学校に行けた人)は、優秀である/仕事ができる可能性が高い」という前提に立っている。
この前提は、もちろん完全に正解というわけではないだろうが、相当程度正解に近いのではないか。
そしてそれは、庶民みんなが本当はわかっているのではないか。
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つまるところ、泰明小学校校長は形から入りたいのである。
生徒に高級な服を着せて、それにふさわしい人間になってほしいのである。
高い制服代の負担に耐えられる家庭の子弟こそ、我が校を選択して来てほしいのである。
そうなれば泰明小学校は、まさに「ブランド化」に成功するかもしれない。
「金持ちの上流子女の通う、高級校」と世間に見なされるかもしれない。
こういう“客を選ぶ(顧客の選別)”とか“自社のブランド化”は、あらゆる企業が自社もそうありたいと渇望するところのものだ。
はたして公立校とはいえ、学校がそれを目指しちゃいけないのか、という問題は、かなり根深いものである。
もし本当に「スカートとリボンを着用する」男子生徒が出現したら、これはある種の趣味の人たちにとって、大コーフンものの妄想が現実になるということになる。
(しかし、女子生徒がスラックスとネクタイを選んでも別にニュースにはならないだろう。不思議なことである。)
そして柏の葉中学校は、性的不一致に悩む子どもたちの“聖地”のようになるかもしれない。
これもまた、別の方向のブランド化である。
とはいえ今の日本においては、まだまだ“変わり者が通う学校”と偏見視されるのは避けられまい。
これは、諸刃の剣と言わざるを得ない。
さてしかし、根本的な問題は、この制服というもの自体の存在である。
日本は世界トップレベルの制服大国らしく、学校での制服は当たり前だし、企業でもごくありふれたものである。
だが誰もが知っているように、日本の(特に女子・女性の)制服は、職業ステータスなんかを表すだけのものではない。
それは他の何よりも、「性的対象」としての役割を果たしているのだ。
このことを否定する男性は、たぶん一人もいないはずである。
いるとしたら、それは大嘘つきというものだ。
セーラー服をはじめ女子・女性の制服というものは、日本においてまぎれもなく性のアイコンである。
これは、ほとんど全国民の一般常識と言ってよい。
つまりあなたが娘の親(特に父親)であるなら、娘に制服を着せて学校へ通わせるということは、娘が大勢の男たちに性的な目で見られることを意味している――
と、当然わかっているはずである。
どうも最近の世界の趨勢からして、日本の制服というものは「女性を性的なものとして扱う」ことの象徴として、いつか槍玉に挙げられそうな気配である。
そしてこのことについては、日本人男性なら完全に「その通り」と内心納得してしまうだろう。
高級制服もよし、ジェンダーレス制服もよし。
しかしそもそも「制服」自体が、子どもたちを性の対象として見させているとしたら――
(「したら」と言うより、間違いなく「している」のだが。)
かつて日本にもある程度存在した「制服廃止論」も、新たな説得力を帯びて甦ってきそうである。