プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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女児、秋祭りでボランティア老人に叱られPTSD発症⇒主催の深谷市に賠償命令-裁判所の示す「人と接するリスク」

 5歳の女児が祭りの景品に手を出し、ボランティアの80代老人に「大声で」叱られる。

 それで女児がPTSDを発症したということで、東京地裁は祭りを主催する深谷市に20万円の損害賠償を命じる判決を出した。

headlines.yahoo.co.jp

 

www.nishinippon.co.jp

 

www.okinawatimes.co.jp


 この事件が起こったのは、2014年11月のこと。場所は深谷市の施設である「ふかや緑の王国」(ここで毎年恒例の秋祭りが開かれていた。)。

 そして判決が出たのは、2017年の今である。

 まず感じるのは、こんな事件でも3年もかかってしまうということだ。

 そりゃ大抵の人間にとって裁判の敷居が高いと感じるのも無理はない。

 そして上記新聞記事の中では、朝日新聞が一番詳しい内容を伝えている。

 他の2紙はどう読んでも「叱られたこと」がPTSDの原因だという風に書いているが、朝日新聞だけは

「80代のボランティア男性に大声で叱られた。女児は駆けつけた父親の前で泣き出し、父親と男性が口論するのを見て、4カ月後にPTSDと診断された。」

 と書き、“原因は叱られたことではなく、父と80代男性が口論したことの方ではないか”と読み取れることを匂わせているからである。


 このニュースを読んだ人の九割九分が感じるだろうことは、もちろん――

“こんなのでPTSDになって損害賠償がもらえるんなら、自分も小さい頃もらえたのではないか。他にも大勢もらえる子どもがいるのではないか”

 とか、

“そもそもこれでPTSDになるって、(この子が)おかしいんじゃないのか” 

 ということである。

 そしておそらくは、(むろん私は判決文など読んではいないが)裁判官も一応そう思っているのだろう。

 なにせ原告(子ども自身が原告になっているが、当然ながら実質は親である)は190万円の賠償を求めているのに、賠償を命じた額は20万円だけだからである。

 その差額分は、「因果関係があるにはあるが、そこまでではない」または「原告側の“過失”を相殺する」という意味なのだろう。

 とはいえ、原告側が勝訴したことは確かである。

 それがどの程度かは知らないが、「大声で」叱らなければPTSDは生じなかったとの因果関係はある、と断じたのである。

 そしてこの因果関係は、むろん誰にも否定できない。

 そう、たとえ女児が勝手に景品に手を出したにしても、叱りさえしなければ女児は泣きもしなかったしPTSDになりもしなかったろう。

 これは昔で言えば、「当たり前田のクラッカー」の因果関係である。


 さて、ではこういうとき、ボランティアのスタッフらはどんな対応をすればよいか。

 さすがに見て見ぬふりはできまいから、「メッ」とでも優しく注意すればよいか。

 しかし口調はともかく「コワい顔」になってしまって女児が泣き出せば、それはそれで親がやってきて口論になってやっぱりPTSDになったのではないか。

 もうこうなると、人と接すること自体が危険極まる行為である。


 今回の事件では、叱った老人個人ではなく主催者(会場施設管理者)の市が被告になった――

(もちろん、賠償能力のありそうな市を被告にするに決まっている)

 が、たぶんこの老人は罪の意識か怒りを覚えているはずである。

 そしてこの老人自身ばかりか他のボランティアの人たちも、「もうボランティアなんて危険でやってられない」と感じるのに何の不思議があるだろう。

 

 私は、「告白して断られるのが怖いから告白しない」というのは、恋愛離れや非婚化の原因のうち、かなり無視できない要因になっていると思う。

(もしかしたら、経済的要因よりはるかに大きいかもしれない。)

 そして次は、「人と接するのは危険だから接しない」「何かの活動に参加するのはリスクがあるから参加しない」という意識が、日本の祭りやボランティア(そして労働意欲)などを衰退させる番だろうと思う。

 いや、もうそういう時代に入ってかなり経つとも思われる。


 もはや「悪さをした子どもを大声で叱る」のは、時代遅れの所業となった。

 いくらそんな時代を嘆こうとも、公の裁判所さえもそれを肯定しているのである。

 他人、特に子どもの悪さを見て叱ったり注意するのは、とってもリスクフルなことだというのが世の趨勢である。

 時代はやはり、個々人がバラバラになるのが適応的な環境に進んでいるのだ――