世界に冠たる日本企業、日産と神戸製鋼所が大揺れである。
特に神戸製鋼所は揺れまくりで、報道を見ているとこのまま倒産してもおかしくないような按配だ。
つい最近には、これも世界に冠たる東芝が不正会計問題で破綻寸前にまで(自業自得ではあるが)追い込まれている。
そしてこれらについてこのごろ語られているのは、こういう不正を相次いで起こす「日本企業の体質」である。
その体質とは要約すると、
「日本企業は、会社への帰属意識・家族意識が強いムラ社会である。
だから上司・上層部が不正をしているとわかっていても指摘できない。
それは他人には裏切り者と見なされ、自分自身ですら裏切り行為で反道徳的だと感じてしまう。」
ということになるだろう。
私も先日、これについて似たような記事を書いている。
tairanaritoshi-2.hatenablog.com
もっともこれには、他にも原因があるにはあるだろう。
たとえば「日本企業は総じてボトムアップ式で、欧米企業はトップダウン式」だというステロタイプを援用するなら――
会社の下層部や中層部が“ボトムアップ式で”良かれと思って不正をやっている、
そして会社の上層部も自分らが下層部から上がってきたものだから(自分たちもやってきたことだから)法令違反とわかっていても下を注意できない、というのは大いにありそうである。
そしてまた、「たとえ法令違反でも、ウチの会社ではずっとこうしてきたんだからこれでいいんだ」と思うこと、
それを直せと指摘する人間は「いらんことを言う、生意気で和を乱す連中」と(まさしく“善意”の社員によって)見なされることは、
別に大企業でなくたって日本の企業・組織では非常にありふれたことのように思う。
しかしまあムラ社会にせよ「和を乱す」内部の人間を糾弾するにせよ、それらは全て戦後日本についてずっとずっと言われ続けてきたことである。
21世紀も5分の1になろうとする今も、日本人と日本人の構成する組織の内面は――
学校も会社もどれもこれも、昔と全然変化がないように見えるのは一種の驚異である。
たとえ“雰囲気”は変わっても、民族性とか国民性とかいうものは最後の最後まで変わることに抵抗するのかもしれない。
日本人は熱烈な(もしくはナチュラルな)軍国主義者から、少なくとも自分から進んで他国を軍事攻撃しようなどとは決して言わず/思いもしない平和主義者に変貌を遂げた。
しかし雰囲気が軍国主義から平和主義に変わろうと、
生活の糧が農耕・漁労・工場労働者などからサービス業の会社勤めに変わろうと、
封建土人の心性は変わることなくただ雰囲気に適応しているだけのようだ。
これはもう、日本と日本人の伝統だと言ってもいいだろう。
(しかも日本人の大多数は、そういう封建土人道徳を「守るべき美しき伝統」だと思ってもいる。)
日産も神戸製鋼所も東芝も、世界最先端の技術を持つ企業集団に属している。
いや、日本の製造業はおしなべて世界水準・世界最高水準の技術を持つとされている。
しかしその内実は、(日産も神戸製鋼所も東芝もそうなのだから)相も変わらぬ封建土人集団だと見てよかろう。
おそらくこれとほとんど同じ感想を、戦国時代の日本に来たヨーロッパ宣教師なども持っていたのではないだろうか?
戦国時代の日本が、鉄砲を知ってごく短期間で「世界最大の鉄砲保有国」になっていた、というのは有名な話である。
(本当に世界最大だったのか、私は実証的な研究結果を見たことはないが……)
しかし同時に戦国時代の日本人は、「敵の首を取って手柄にするのが当たり前」の人たちでもあった。
だからヨーロッパ人の目に映った日本人の姿が、「鉄砲を持った首狩り族」「先端技術を持った土人」というものであっても何もおかしくない。
むろん当時のヨーロッパ人も今から見れば土人のような思考や振る舞いをしていたかもしれないが――
しかし日本ほどは戦場で敵の首を切り取ることに狂奔していたわけではないだろう。
「先端技術を持った首狩り族」とは、ものすごく恐ろしいイメージである。
20世紀の欧米人が日本人を脅威と感じていたというのも、こう考えれば納得できる。
得体の知れない道徳と行動様式を持つ連中が、自分たちをも凌ぐ高度な技術を持っている――それは非常に恐ろしいイメージに違いない。
仮に日産や神戸製鋼所や東芝が全て倒産してしまったとしても、それでも日本企業の隠蔽体質は直らないだろう。
今後とも何度でも、こういう事件は起きるだろう。
それは日本人が「目上」を敬う道徳を守るべきだと(善意で・本気で)思っているからである。
そうでないのは不道徳だという共通認識があるからである。
自分たちが生きるのは「ムラ」であるべきだと、老若男女が願っているからである。
これほど長く続いた「伝統」は、容易なことでは消滅しない。
しかしやはり、何でも終わる日は来るものだ。
あなたは西暦5000年の日本人が、まだこんな道徳を信じていると思えるだろうか?
思えないなら、それは永遠ではないのである。