プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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DQN父に殺されたキラキラネームの子5人と妻-庶民の願う「新・被差別民」の誕生

 いつものことと言えばそうなのだが、ここ数日は特に悲惨な事件のニュースが多い。

 

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 その中でも極めつけと言うべきは、例の「離婚されそうになった父親が、妻と子ども5人を殺害して家(県営住宅)に火を放った」という事件だろう。

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 さて、みなさんがまともな市民であるなら、「こんな連中とは関わりたくない」と当然思うだろう。

 「こんな連中が近所に住んでて欲しくない」と思う(願う)気持ちに、一点の曇りも良心の痛みもないことだろう。

 それが“差別だ”と言われれば、「は? 何言ってんだ!」と怒ったり呆れたりするに違いない。

 こういう連中がいなくなることは、まともな庶民の願いである。

 いなくなる(死ぬとか殺すとか)のが無理ならば、近くに寄ってきてほしくない/自分や家族と関わることがないようにしてほしいと思うのは、ごく自然な感情の発露である。

 「差別・偏見は決して許されない」と言っている人だって、内心は絶対に同じように思っているに違いない。

 あなたがいかに国粋主義者だろうと、「こんなDQN連中でも同じ日本人、我々の仲間なんだ、一緒に暮らしていかなくちゃならないんだ」と思うことは難しい。

 いや、難しいどころか積極的に否定するに決まっている。

(「コイツらは全員、実は“在日”なんだ……と言い張ることもできるのはできるが。)

 
 これは要するに、庶民の願いとして「新・被差別民」の設定が希求されている、ということだろう。

 日本の差別と言えば部落差別が有名で、有名である以上にいまだにそれが続いているとされている。

外国人差別というのもあるが、それはここではさておく。)

 しかし庶民が本当に望むのは、もはや「部落民と一緒に暮らしたくない」とかいうものではなく――

 こういう事件を起こす(起こしかねない)「DQN連中が近くにいてほしくない」というものである。

 果たしてこれは、「悪いこと」だろうか。

 DQN連中を被差別民として見ること・設定することは、大多数の国民の内心で「悪くない」とされているのではないだろうか。

 そしてその新たな――民衆に支持されて誕生した――被差別民の顕著な特徴と見なされるのは、例の「キラキラネーム」(DQNネーム)というものだと思われる。

 今回、父親の小松博文(32歳。同姓同名が多そうな名で、そういう人たちには気の毒なことだ)に殺された5人の子どもの名は――


①長女・夢妃(11歳) 「むうあ」と読む

②長男・幸虎(7歳) 「たから」と読む

次男・龍煌(5歳) 「りゅうあ」と読む

④双子の三男・頼瑠(3歳) 「らいる」と読む

⑤双子の四男・澪瑠(3歳) 「れいる」と読む


 という。

 これを見てその強烈な「DQN臭」を感じないという人は、あらかた嘘をついていると思う。

(おそらく新聞社やテレビ局の記者もスタッフも、こぞってそう感じたはずである。)

 キラキラネームが世間一般から「新・被差別民」の特性であると見なされているというのは、あながち間違いではないだろう。

 たぶん就職採用の場では、こういう名前が(真の理由を言わずに)落とされているだろうことは、想像に難くない。

 むろん本人たる子どもらに何の罪もあるわけではないのだが、「こんな名前を付ける親は、職場に怒鳴り込んでくるタイプではないか」と懸念してリスク回避に走るのは、別に飛躍でも不思議でも没義道(もぎどう)でもなく無理からぬことかもしれない。

 

(なお、付け加えて言えば、部落差別は「本人の意志ではどうにもならない生まれ」に基づく差別である。

 これは現代人には受け入れがたい理由なので、その「正当性」を主張することは非常に難しい。

 ところがキラキラネームの場合は、100%「自分(親)の意志で決められる」ものである。

 これは、現代人に非常にマッチする差別理由ではないだろうか。)

 


 親がなぜ子どもを(地元の公立校でなく)家から離れた進学校に行かせたいのかと言えば――

 必ずしも「いい学校に行って、いい就職をして、いい人生を送ってほしい」と願っているからだけではなく、

 「地元の程度の低い連中と同じ学校にわが子を行かせたくない」という切なる願いの方が、大きいのではないだろうか?


 先日の記事にも書いたように、世界の大勢は「分裂」に向かっている。

 しかしこの日本では地域的な分離・分裂と言うより、「階級の分裂」が進む予感がビンビンにする。

 それは必ずしも「金持ち国民」と「貧乏国民」ではなく、「まっとうな市民(国民)」と「新・被差別民(DQN民)」への分裂である。

 何しろ日本では、れっきとした社会学者が「現金は汚いから使わない。使ってる人間は頭が悪い」と差別を公言しているのである。

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 そしてこういう発言に共感したり――

 それどころか「こういう発言があるから、自分もそう思うようになる/周囲にそう発言するようになる」人さえも、想像するよりずっと大勢いることだろう。

 「カズオ・イシグロノーベル文学賞を獲ったから、初めて彼の小説を買って読む(図書館で借りて読む)」なんていう(そういうタイプでない人にとっては、信じられない本の読み方だ)人がゴマンといる社会というのは、「新・被差別民」が誕生するにはうってつけの土壌である。

 21世紀の日本に、部落差別に代わる新たな差別が生まれようとしている。

 しかもそれは、庶民の広範で心からの支持を受けているように見受けられる。


 時代は変わるが、しかし歴史は繰り返しもする――

 22世紀の日本が「超AIとハイテク下の封建身分社会」になっていたとして、驚くようなことでもないのだろう。