学校法人(つまり民間)博多学園が運営する福岡市・博多高校において、授業中に生徒が教師に暴行する動画がツイッターで拡散。
暴行した男子生徒はもちろんのこと、それを笑ってヤジも飛ばして見ていた男女生徒らも「とんでもない連中だ」として非難を浴びている。
男子生徒が授業中にタブレットを見ていたのを注意され、それでも止めなかったので男性教師がタブレットを取り上げたところ、激高した男子生徒が教団に行って男性教師を蹴るなどした、という流れらしい。
この男子生徒がこんなことをしたのは、もちろんメンツを守るためである。
タブレットを取り上げられて黙っていたのでは、恥をかかされても黙って我慢することになる。周りにそう見られ、面目を失う。
こういうときに引き下がらずに大声を出したり実力行使することこそが、男(女でもいいが)の体面を守ることになる。
――と、こういうパターンは、ある意味まっとうな心の動きだ。
このニュースと動画を見て憤りを感じる人の中にも、いざ自分がそんな立場になったら同じような行動をする人はたくさんいるだろう。
さて、こういうニュースを見ていつも感じるのは、「どうして勉強する気のない人が、実際には学校に行くことになっているのか」ということである。
それはもう、勉強する気がない人の中にさえも、「世の中、高校までは行くものだ」という“社会の雰囲気”が浸透しているからだと思われる。
学校なんてくだらない、勉強なんてする気にならない――そんな風にうそぶいてアウトローやドロップアウト組を気取っている男子女子が、それでもなお学校に行って曲がりなりにも授業の席に座っていることについて、これ以外の説明があるだろうか。
アウトローやドロップアウト組を気取るなら、高校なんて行かなければよい。
それはそういう意志さえあれば、誠に簡単なことである。
それでもなおかつ学校に行っているのであれば、実に半端者のアウトローと言うべきであり、結局は“社会の常識・雰囲気”に繋がれているだけである。
そして私は、この「人間、学校には行くものだ」という雰囲気は、ぜひとも絶滅させるべきだと思っている。
改めて考えてみるまでもないが――
世の中には、生まれつき勉強に向いてない人がいるのである。生まれつき勉強したくない人がいるのである。
そんな人が世の中の雰囲気のせいで学校に行くというのは、本人にとってはもちろん社会にとって損失に他ならない。
勉強に向いてない人・やりたくない人に毎年毎年どれだけの莫大な税金(や親の資金)が費やされ、無駄になっているかと思うと、空恐ろしい気持ちになるのがそれこそ「常識」ではないだろうか。
tairanaritoshi-2.hatenablog.com
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話は全然違うかのように思えるが――
日本の「未婚率(非婚率)」や「恋愛離れ・セックス離れ」は、進むばかりだと報じられている。
昔の人はほとんど結婚して子どもを作っていたのに、いまや男女の3分の1とか4分の1は生涯結婚も子作りもしないで終わると言われている。
これはただひたすらに暗い話だと思われがちだが、しかし明るい側面もある。それは――
恋愛・結婚・子育てに向いてない人が、それらのことをしないで良くなったということである。
当たり前のことながら、昔だって明らかに恋愛にも結婚にも子育てにも向いてない人はたくさんいたはずだ。
しかし時代の雰囲気で、そういう人までがそういうことに手を染めてきたのである。
いったいこのことで、どれだけの人生が無駄にされ台無しにされ、面白くもない結末や悲惨な破滅を迎えてきたか計り知れないではないか?
恋愛・結婚・子育てに向いてない人、やりたくない人、関心が薄い人がいるというのは、さすがに疑う余地がない。
だったら勉強したくない人、向いてない人がいるというのは、同じくらい疑う余地がないはずである。
日本は「向いてない人」が結婚しないで良い国になった。これはやはり、朗報と言わずばなるまい。
次は「向いてない人」が学校に行かなくて良い国になるべきである。そうすれば人生の無駄な時間は削減され、税金も個人の資金も別のもっと有用なことに――「向いてない人」に投じるのとは比較にならない投資効率の良い事業に充てることができるだろう。
これは個々人にとっても社会にとっても、一挙両得の話だとしか思えないのだが、しかしそういう主張をする政治家はおろか庶民もいまい。
やっぱり今の我々は、「学校には行くべきもの。行けない人や行きたくない人も行かせるのが、国や自治体や社会の責務」という雰囲気の中にいるからである。
この雰囲気が薄れないことには、我々はいつまで経ってもはなはだしい浪費を止めることができないだろう……