自民党参院議員の今井絵理子(元SPEED)と自民党の神戸市議会議員・橋本健は、ワイドショーの格好のネタになっている。
(橋本市議は、8月29日に辞職届を出した。)
いずれも、不倫が暴かれたためである。
その他、斉藤由貴だの何だのと、今年は本当に不倫報道の多い年だ。
今年のブームは間違いなく「不倫」である。それは北朝鮮危機よりはるかに日本国民の関心を集めている。
しかし、世間はなぜここまで不倫を叩くのだろうか。
なぜ配偶者でもない赤の他人の大勢が「許せない」と怒り、当の本人らは公に謝罪や辞職をしなくてはならないのだろうか。
(橋本健の場合は、不倫発覚をキッカケに政調費の不正疑惑が芋ヅル式に出てきたからだが……)
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当たり前の常識だが、不倫は犯罪ではない。
刑法に載っていて国から刑罰を与えられる「罪」ではない。
それどころか、戦前刑法には載っていたのにわざわざ削除された「旧時代における罪」でしかない。
刑法上の犯罪というのは「公に対する罪」であり、そうでなければ民事上の責任、つまり「私的な罪」でしかないはずである。
自分や相手の家族に平謝りに謝るのはともかくとして、別に世間の赤の他人に謝「罪」する道理は全くない。
しかしそれなのに、現代日本人の間では不倫は明らかに「公的な罪」であると認識されているかのようだ。
私も別に、山尾志桜里や斉藤由貴、橋本健や今井絵理子を弁護するつもりも義理もないのだが――
これがそんなに赤の他人から叩かれて当然の「罪」なのか、とは思うものである。
あなたは、不倫した政治家は当然に辞めるべきだと思うだろうか。
不倫した芸能人は、叩かれて当然と思うだろうか。
もしそう思うなら、不倫とは人間として「根本的に・道徳的に」悪い罪だと考えていることになる。
では、あなたの周囲や知り合いにも不倫がバレて離婚したりした(ことが知られている)人はいると思うのだが――
その人たちは、当然に会社を辞めるべきだろうか。それを理由に会社が辞職を求めるのはやむを得ないことだろうか。
もしそう思わないのなら、不倫とは根本的に道徳的に「悪であり罪である」という考えは、どういうことになるのだろう。
政治家や有名人なら辞職やバッシングが当然だが、一般人はそうでない、というのはダブルスタンダードではないか。
これが「万引き」という罪ならどうなのか。
そんな道徳的規準って、はっきりデタラメではないか?
どうせなら、「有名人なら罪が重くて一般人なら罪が軽い」、それが正義なのだとハッキリ主張すればよいのではないか?
「自分の家族も幸せにできない人が、他の人を幸せにできるはずがない。
自分の家族も裏切る人が、他の人を裏切らないはずがない。だから辞めるべきだ」
というのなら、
「自分の家族も幸せにできない人が、お客様や同僚を幸せにできるはずがない。
自分の家族も裏切る人が、お客様や同僚を裏切らないわけがない。
だから退職すべきだ。クビになるべきだ」
というのも当然正しいはずである。
よって上記のように思うのだとすれば、あなたも知り合いの不倫離婚者を「許せない人間」として公然と叩くべきである。
もちろん自分の不倫がバレれば、そうなって然るべきである。
ところで私は、「自分の家族も幸せにできない人が……」式の考えを完全に否定するものである。
家族をないがしろにしながら、仕事において素晴らしい業績を上げる人はいる。
家族を泣かせておきながら、傑作をものする作家や芸術家(そして科学者も)は、たぶん枚挙にいとまない。
なるほどそういう人たちは初めから結婚して家庭を作らなければ良かったのだが、しかし厳然としてそういう人はいるのである。
家族が泣くのはそれは痛ましいことではあるが、部外者にとっては当の本人が仕事してくれればそれで良い。
だいたい家族の間にどんな事情があるかわかりもしないのに、ヘタに本人が一方的に悪いとも言えはしない。
(その人の配偶者が、一緒にいるのも嫌な抑圧者に変貌してしまっているというのもあり得ることだ。)
それにしても不思議なのは――
こんなにも不倫に怒っている(らしい)日本国民が大勢いるというのに、「姦通罪を復活させよう」という声が全く一つもないという事実である。
不倫を非難する論者も一般人も、これほど甲論乙駁・種々雑多な意見が山のように書き込まれるネット界においてすら、姦通罪復活の主張を見ることが絶無なのは異常である。
(もちろん、どの新聞の投書欄にも載ってないだろう。)
不倫が本当に天人許さざる悪行であるなら、それを公の罪として――刑法上の犯罪として位置づけるべきだろう。
そして政治家の中には、そんな主張をする人がいてもおかしくない。
国民の中からそういう刑法改正運動が起きてきても自然である。
なのに、どうしてそういうことが全くないのか。
その答えは、あなたにもきっとわかっているだろう。
要するに、そういう主張はバカにされたり叩かれるということが、ハッキリわかっているのである。
そんなことを本気で主張する人は、「奇矯な宗教団体」か「保守論者からさえ古臭いと見られる復古主義者」か、とにかく異常視・白眼視されるとわかっているのである。
しかし面白いのは、そんな風に「姦通罪復活」を白眼視する人は、不倫バッシングに乗っかっている人と全く同一人物に違いないことだろう。
これは本当に倒錯した心情であって、性的倒錯の方がまだ理解しやすいくらいかもしれない。
あるいは、人は言うかもしれない。
「公の罪とまでは言えないが、限りなくそれに近い罪というものがある。それが不倫だ」とか――
しかしそもそも、そういう曖昧で恣意的な罪というのをなくすために、法律は制定されるものである。
不倫が赤の他人から叩かれて当然の「罪」だというなら、姦通罪の復活や不倫罪の創設を求めるのが筋である。
それをしないで不倫を叩くのは、罪刑法定主義をバカにするものである。
そしてもう一つ、国民的規模の私的制裁(リンチ)を肯定することでもある。
思えば「日本は法治国家だが、中国は人治国家だ」というのは、中国を批判するときの決まり文句の一つである。
しかしどうしてどうして、他人の不倫を怒る人・叩く人がこんなに多い日本人も、やっぱりその心情としては人治国家を志向しているとしか思えない。
いや、本当は日本人は、法治国家より人治国家を求めているのではないか?
その方が好きで、しかも正義だと思っているのではないか?
日本人も中国人も、しょせんは同じアジア人である。
たぶん朝鮮半島でもインドネシアやタイとかでも、そこの人民は本当は人治主義を「愛している」「向いている」のだろう。
多少の変異はあったにしても、やはりアジア人はオリエンタリズムという根っこで繋がっているのだろう。
(「オリエンタリズム」は、最近の欧米ではアジアへの差別用語とみなされて来始めているようだが……)
日本人の根本的な人治主義志向は、最後の一人の日本人が死滅するまでなくならないものと思われる……