プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「エクセレント・カンパニー」東芝の凋落(経営危機)と「目上を敬う」封建土人道徳

 日本を代表する企業の一つ「東芝」は、見るも無惨な凋落を遂げた。
 その株式銘柄は東証一部から二部に“転落”し、上場廃止さえもいまだ危ぶまれている。
 その経過をいちいち書くことはやめておこう。
(あまりにも長すぎるし、第一それほどよくは知らない。)

 しかし東芝と言えば、1980年代から90年代にかけて、日本どころか世界の「エクセレント・カンパニー」扱いされていた。
 ものづくりにしろ創意工夫にしろ欧米企業を大幅に凌駕するとされ、世界の目指すべきお手本企業の一つだった。
 それが今日の凋落に至ったのだから、東芝はいったい何がどう変わってしまったのか、誰もが知りたいと思うところである。
 しかしここで、最近読んだ一本の記事がある。
 昨年東芝を退社し起業した、中西文太 氏についてのものである。
 この記事のサブタイトル?は、『ヤメ東芝男性 「日本企業が抱える問題のほとんどに触れた」』となっている。
 中西氏はこう語る。
「日本を代表する巨大な組織にいたからこそ、その問題点を体感できました。
 東芝に限らずほとんどの日本企業は、旧態依然としたシステムの中にあります。
 社員の意見がほとんど出ない会議、上司や先輩の存在を気にして行なう意思決定などはその最たるものです。
 こういったものを変えていかないと、生き残りは図れません。
 東芝も、海外のやり方を身につけている人材を採用して意識改革を進めることが、再生への一番の近道だと思っています」

 「社員の意見がほとんど出ない会議」、「上司や先輩の存在を気にして行なう意思決定」――
 はっきり言って、何の新鮮味もない“日本企業の抱える旧態依然としたシステム”論である。
 有名な日本企業がダメになるとき、決まって「あの企業は実はこうだった」としてこういう点が指摘される。
 しかしもちろんこれは、中西氏が平々凡々たる観察者・体験者に過ぎなかったというわけではない。
 没落した日本企業について、何十年一日のごとく「社員の意見がほとんど出ない会議」「上司や先輩の存在を気にして行なう意思決定」が悪弊だと語られるのは、それが本当に何十年一日のごとくの真実だからである。
 そして言うまでもなくこれは、別に東芝その他の没落企業だけがそうだというのではなく、日本の企業や組織のほとんど全てが抱えている宿痾でもある。
 (きっと、あなたの勤めている会社もそうなのだろう。)
 
 いったいなぜ日本企業は・日本人は、いつまで経っても「社員の意見がほとんど出ない会議」「上司や先輩の存在を気にして行なう意思決定」から抜け出せないのだろう。
 その答えは明々白々で、「上司や先輩の存在を気にして」「(低い身分の)自分ごときが意見を出すのは遠慮すべき」というのが、“美しくも正しい、人としてあるべき道徳”だと日本人の大多数が思っているからである。

 先輩だの上司だのといった「目上の人間」を敬うべきだという道徳は、今でも(若い世代にさえも)広く深く日本社会に浸透している。
 「目上の人間」なんて民主主義社会にいてはならず、今の日本人のほぼ全員が民主主義者を自認するだろうに、なおそうである。
(ちなみに、「人間は平等」という理念と「目上の人間」の存在を折り合わせる方法は“絶対に”ない。
 あると言うならどういう理屈か聞いてみたいが、どうせ屁理屈である。) 
 
 私はこの「上司や先輩の存在を気にして」「(低い身分の)自分ごときが意見を出すのは遠慮すべき」という道徳観の形成について、学校の部活というのは戦犯クラスの悪影響を及ぼしていると思う。
 救いがたいことに、「上下関係が学べるから/身に着けさせたいから」わが子を部活や空手道場とかに通わせる親はいまだに多い。
 まったく、これを“封建主義者の自主的再生産”と言わずして何と言おう。
 
 「上下関係のしっかり身に着いた子どもは、大きくなったら上司や先輩を気にして遠慮する大人になる」
 「そうするのが正しい礼節だと感じる大人になる」
 「そうしないのは無礼でケシカラン奴だと感じる大人になる」
 というのは余程のバカでもわかる方程式(本当は、方程式と呼ぶのもおこがましい)だと思うのだが――
 しかし多くの親は進んでわが子ににそういう大人になって欲しいと望んでいるのだから、もう何をか言わんやである。
 この調子でいけば、きっと何十年後かもどこかの有名日本企業がダメになれば、またまた飽きもせず性懲りもなく
「旧態依然の、社員の意見がほとんど出ない会議、上司や先輩の存在を気にして行なう意思決定」
 が語られるのに違いない。

 そしておそらく東芝も、世界のエクセレント・カンパニーだった頃と最近とでは、企業風土にたいした違いはなかったのではないだろうか?
 たぶん東芝の黄金時代も、その会議というのは「上司・先輩に遠慮した、下っ端は発言しない(すべきでない)会議」だったのではないか?
 それが世界に冠たる先進企業とされていたのは、単に「時代」と「たまたま」のせいだった、というのは言い過ぎか?
 別にことさら東芝の悪口を言う気はサラサラないのだが――
 結局、今日の東芝の凋落というのは、「エクセレント・カンパニーの化けの皮が剥がれた」ということのようにも感じる。  
 
 東芝も多くの有名日本企業も、その実態と言えば「先進企業の皮を被った封建領国」である可能性が非常に高い。
 それは何も経営者が悪いからではなく、封建領国を支える日本国民自体が
「目上の人間である、上司や先輩を敬うべきだ/身分の低い者は遠慮すべきだ」
 という“土人道徳”を持っているからだ、とするのは、またしても言い過ぎなのだろうか?