プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「嫁」と「主人」は意識が低いか、ならば「目上」と「先生」はどうか-川上未映子の言葉論

 芥川賞作家の川上未映子 氏(40歳)は、「嫁」と「主人」という呼び方が心底嫌いだそうである。
 
 重ねて3月には朝日新聞に、「『主人』や『嫁』という言葉は賞味期限切れ」との寄稿もしている。
 そしてこれを元にライブドアニュース(abemaTIMES)では、リクルートブライダル総研の行った「他人に話す時の配偶者の呼び方」の調査結果記事が載っている。

 この「問題」については、かなり前から――それこそ何十年も前から――ネットや新聞などで間欠的に取り上げられてきた記憶がある。
 しかし、言ってみればこういう“使い古された話題”も、芥川賞作家が言えばやっぱりまた話題になり議論にもなる。
 まこと世の中には権威主義者が溢れている――と、むしろそういう感想の方を強く抱いてしまう。
 地位や名声を求めてガツガツする人間は例外なく嫌われるものだが、しかしガツガツしたくもなろうというものだ。
 自分が思うことを書いたり言ったりすれば、それで世間が動く。
 これは多くの人間にとって、いや全ての人間にとって、こたえられない快感だろう。

 それはともかく、他人に対して妻のことを「嫁」と言ったり、夫のことを「主人」と呼ぶ人間は、依然世の中の多数派である。
 ではそういう人は意識が低いか。
 彼ら彼女らは無意識の性差別主義者であり、男女の役割を固定化させる“悪行”に無意識に加担する者であるか。

 どうもこれは、世の中に無数に存在する、「そう思うからそう思う」現象の一つではないかと思われる。
 「嫁」と「主人」が差別語で不快な言葉と思うからそう思うのであり、思わなければ思わないのではないか。
 実際どちらかというと、妻のことを「嫁」と呼ぶ夫の過半数くらいは、むしろ嫁にキン●マを握られているくらいではないだろうか?
(そしてまた、嫁と呼ばない夫より、妻に対する愛情が劣っているとも断言しがたい。
 だいたいそんな調査ができるとも思われない。)

 ここでちょっと気になるのは、川上未映子氏は「目上」とか「先生」とかいう呼び方をどう思っているのだろうということである。
 おそらく川上氏は、人間は平等である、人間に上下はない、という理念を(他の人間と同様に)持っていると思う。
 だったら「目上」の人間はいないはず――いてはならないはずであり、そういう言葉こそ賞味期限切れで廃棄すべきだと主張するのが当たり前だろう。
 別に何についてまで意見を言うべきだ、などとは言わないが、「嫁」と「主人」という言葉をこの世からなくすべきだと主張するなら、「目上」という言葉も同様にすべきだと主張するよう期待したいものである。
 また川上氏は作家であり(夫の阿部和重氏も作家である)、おそらく編集者や周りの人からは「先生」と呼ばれていることと思う。
 川上氏は、

「同業者との会話のなかで「嫁」とか「主人」とかっていう言葉が出ると、「わたしに主人はいません」とか「それはありえませんよ」と、別に言いたくないけど、その場で即座に指摘するようにしている。」

 そうなのだが、では自分が「先生」と呼ばれたとき、

「私はあなたの先生ではありません。」
 
 と即座に指摘しているのだろうか。

 こんなことを言うのも、世の中には「先生」とか「職名・肩書き」で呼ばれないと(呼ばないと)「失礼だ!」と思う人が実にたくさんいるからである。
 「さん」付けで呼ぶのは無礼だと怒る人がいるからである。
 そしてまた、人間は平等だと信じていながらそれでも「自分だけは例外」という人も多いからである。
 まさかとは思うが、川上氏は「先生」と呼ばれてそれを平然と受け止めているのだろうか。
 初対面の人に「川上さん」と呼ばれて、ムッとしはしないのだろうか……?

 話を本題に戻すと、冒頭に書いたとおり「嫁・主人という言い方は止めろ」というのは昔から言われてきたことである。
 しかしそれでもなくならないのは、一つ実際的な理由あるいは難題があるからだ(と思う)。
 それは、「第三者が妻に対してその夫のことに触れるとき、『ご主人』以外にどんな代案があるか」という問題である。
 第三者が夫に用事があって電話をかける。
 しかし電話に出たのは妻。
 そこで第三者は「夫の方おられますか?」と言うわけにはいかない。
 「旦那さんおられますか?」はそれこそ無礼。
 では夫の本名をあらかじめ知っておいて「太郎さん(様)おられますか?」と言えばいいかというと――
 この本名を呼ぶことをもって無礼とする人間も世の中には多いのである。
 
 この逆パターンで、妻に用事があって夫が出た場合はどうか。
 おそらく川上氏なら、「奥様おられますか?」にはダメ出しをするだろう。
 「奥様」「奥さん」には差別的意味(女は家の奥にいるべきだという価値観の反映)を嗅ぎ取るに決まっているからだ。
 では、これこそどう呼べばいいのか……

 しかし、つくづく思うのだが――
 こういうことを考えると、やっぱり人間は人と接しないことが一番ではないかと思えてくる。
 何を言ってもどう呼んでも、それを不快に感じる人がいるのである。
 もしあなたが川上氏(や、彼女に強く共感する人たち)に用事があって電話をかけて「ご主人おられますか」と言おうものなら、「意識の低い奴」と怒りを買って侮蔑されるのだ。
 くわばらくわばら、人と接すまいぞ、接すまいぞ…… 
 
 なお、「問題提起をする側は、批判する側は、必ずしも代案を出さなくてもよい」というのは、最近非常に良く広まった概念のように思える。
(沖縄基地問題で日・米政府のやり方に反対する者は、必ずしも代案を出さなくてもいい、とか。)
 なるほど問題提起と批判には、それだけで耳を傾ける価値があるというのは本当かもしれない。
 しかし致命的なのは、結局のところ代案なしでは説得力が欠け、従来のやり方や考え方に取って代わることはほぼ絶対に不可能だという点である。
 地球の周りを太陽など他の星が回るとしたプトレマイオス天文学は、星の運行と辻褄を合わせるため、次々と周転円(地球を回る星の周りを、さらに他の星が回るとした)を付け加えていった。
 これを「ホントに自然ってそんなに複雑なのかよ」と批判したり疑問に感じたりするのは、誰にでもできたことだったろう。
 しかしプトレマイオス天文学が捨て去られたのは、太陽の周りを地球など他の星が回るとしたコペルニクス天文学という代案が現れたからである。
 ダーウィンに始まる進化論は間違っている、との言説は星の数ほど出てきてはいるが、しかしやっぱり進化論を引きずり下ろすことはできていない。
 むろん、納得的な代案を提示できていないからである。
 それと同じく、「第三者が夫・妻のことをどう呼ぶか」という第三者呼称問題に代案を立てない限り、“嫁・主人・奥さん”という呼び方を廃絶することはできないように思われる。
 川上氏と彼女に共感する人たちには、ぜひコペルニクスのような代案を提起することを期待したい。