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プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

社会、ニュース、歴史、その他について日々思うことを書いていきます。【プロレス・格闘技編】はリンクからどうぞ。

相模原市・障害者施設襲撃事件―戦後最悪の大量殺人と「人生=ババ抜き」説 その2

 さてこういう事件が起こると、必ずや施設側や警察の対応が問題視される。

 「防ぐことはできなかったのか」という(批判としか受け取られない)問題提起がなされる。

 しかし報道を読む限り、かなり迅速で適度な対応を取っているように感じられる。

 退院措置にした精神科医がボロクソ言われるのはいつものことだが、もし私が精神科医なら、こんな人間が持ち込まれれば絶対に退院などさせない。誰でも一律に病院へぶち込んでおくままにする。

 こんな患者が退院(釈放)後に事件を起こさないなんて確信できないし、それで自分が非難されたり後悔するのは嫌だからである。

 しかしそうは言っても、もし彼を「自分の病院」に入院させることになるのなら、それはそれで困る。

 本人や家族に支払い能力がなかったら、どうにもならないからである。

(たぶん、全額を国費で見ることにはなっていないはずだ。)

 そして、「いったん精神病と診断されたら一生退院できない」ことになれば、全ての精神科医が後難を恐れてそうすれば――

 それはそれで、お涙頂戴式のヒューマンヒストリーが誰かの手によって書かれ、それが世論を動かすだろう。「非人道的」だとして、それはそれで非難を浴びるはずだろう。


 また、「そもそもこんな人間を施設の職員として採用したのが悪い。見抜けないのが悪い」とするのは、採用者にエスパーたれと求めるようなものである。

 植松聖は、おおむね「子ども好きで、コミュニケーション能力もあり、明るく腰が低い性格だった」と周囲の人・近所の人から思われていたようである。

(もちろん、ちょっとしたダークサイドも伝えられてはいるが。)

 それが大学生ころからおかしくなり始め、ついにはフリーメーソンだのUFOだの未来人だのを真剣に手紙に書くようになった。

 なるほど確かに、脳の病気が発症したのだろうと思わせる。

 だが、だからと言って彼が「無罪」になるべきだとは私は思わない。

 こんな人間の人権より、私や他人の身の安全の方がはるかに重要なのはわかりきった話である。

 別に「罪」には問わなくていいが、少なくとも社会的には抹殺すべきである。殺して除去するか、重警戒精神病棟に一生収容すべきである。 


 もし彼に良心や救いのある点を見つけるとすれば――

 それは手紙に書いたその通りに、施設職員は結束バンドで拘束するに留め、殺さなかったこと。

(障害者でないとはいえかなり簡単に殺せたはずだが、やっぱり元同僚としての好意・連帯感があったのだろうか?

 何も言わずに縛ったのか、「ごめん」とでも言ったのか、興味ある点である。)

 もう一つは、「イスラム国に共感してやった」と言わなかったこと。

 最近の世情ならいかにもそう言いそうだし、言えばはるかに大ニュースとなっただろう。

 むろん、いくら何でもこんな事件にイスラム国も「同志がやった」と食いつきはしないだろうが、彼が世間ウケを狙ったのでもなく流行に流されたのでもないことはまずまずわかる。


 ところで私には、こういう事件を未然に防ぐ方法が一つ考えつく。

 それが言いすぎというならば、こういう人間を採用することのない方法が一つ思いつく。

 それは、自宅やスマホや私物パソコンの抜き打ち検査を行なうこと――それを受け入れる同意書を、本人から取り付けることである。

 とんでもないことだって?

 むろん、とんでもないことである。しかしこれをやる以外、その人物が「隠れトンデモ人間」かどうか知る術はない。

 端的に言えば、あなたが植松聖のような人間でないと、他人にどうしてわかるだろう? どうやったら信じられるだろう?

 植松が障害者は抹殺すべきだと(本当は自分こそ世の中から抹殺されるべきだったのだが)同僚にも知人にもベラベラ喋りまくっていたのは、それが狂人の狂人たるゆえんだからである。

 こういう人間は、そんな考えを口に出さずにいられないのである。

 しかしもし狡知と自制心を残す程度の狂い方だったならば、施設職員でありながらにして、自分が夜勤している最中に事を起こすこともできたのだ。 

 その場合、周りの人間は何の予兆も感じることはなかったろう。犯罪予防などできるものではないだろう。

 そして当然、私物・私宅の抜き打ち検査など許されるものではない。

 あなたも許さないし、いくら「人権なんて左翼の言うこと」と思っていても、いざ自分が対象になれば「人権侵害だ」と言う/思うに決まっているのである。


 植松は、やむにやまれぬ狂った心を、手紙や言動に表出せずにいられない程度に狂った人間であった。

 しかしそんな男でもある程度の好評を得ていたし、そもそも就職に成功している。

(これができない「まともな人間」も多いのは、周知のとおり。)

 こういう“世間に溶け込む狂人”は日本にいくらでもいるし、こういう事件が今後も起きるのは百パーセント確実である。

 抜き打ち検査を国民が受け入れない限り、そして受け入れる可能性が全くない限り、こういう事件の発生を防止することは絶対にできない。


 そう考えると、我々はみんな「ババ抜き」の世界に生きていると改めて感じざるを得ない。

 植松のような男に殺されること・通り魔殺人で殺されることは、自然災害や交通事故・崩落事故で死ぬのと同じく、全く偶然の出来事である。

 思えば、植松は脳の病気に罹るというババを引いた。

 植松の親も、彼が息子に産まれてくるというババを引いた。

 やまゆり園は植松を採用し、面談し、退職に至らせるというババを引いた。

 精神科医は、植松を診察するというババを引いた。

 そして殺された障害者たちは、たまたま植松の就職した施設に入所していたというババを引いた。

(障害者に生まれたこと自体、ババを引いたことになるとも言える。)


 そして次にババを引くのは、我々自身かもしれない。

 いや、ろくでもない/つまらない相手と恋愛・結婚したり、自分に合ってない職場で働いたり、ずっと低収入が続いたり、変な客と当たったり、思いもよらない事故に遭ったり……

 我々はみな、毎日のようにババ抜きをしているも同然なのだろう。

「人生とは、ババ抜きと見つけたり」――

 これが、太古から変わらぬ人生観・人生哲学なのだろうか。