この5月1日・2日、愛媛県松山市に旅行に行った際、「湯築城(ゆづきじょう)」跡(道後公園)を訪問してきた。
この湯築城、あの超有名な道後温泉本館のホントにすぐ近くにある。(歩いて10分もかからない)
よって、道後温泉に行くことがあれば、ぜひお立ち寄りすることをお勧めする。
(一生に一度は道後温泉に行く人というのは、日本人のかなりの割合に上るはずである。)
さて、湯築城とはどういう城か、詳しくはネット検索か次に掲げる案内板を読むかしていただきたい。
この城は戦国大名・河野氏(本によって「こうの」とも「かわの」ともルビが振ってあるが、「こうの」が普通のようだ)の居城であり、戦国末期に廃城となった。
ちなみに河野氏は瀬戸内水軍の雄として知られるが、豊臣時代初期に断絶・滅亡してしまっている。
よって現代用語の「失敗国家」になぞらえて言えば、「失敗大名」の部類に入ることになる。
(しかし現代の失敗国家というのは、現に存続しているが上手くいっていないからこそそう呼ばれているのだが。)
湯築城自体について要約すれば、「砦以上・城未満」といったところになるだろうか。
ここでいう「城」とは、我々が城と聞いてイメージする「天守閣・四角形の堀割・白壁の連続」を備えた近世城郭のことである。(大阪城、名古屋城、その他有名な城)
この湯築城跡には、戦国当時はおろか江戸時代の建造物なども何一つ残ってはいない。
なにしろ、廃城後はずっと鳥の巣になって荒れ果てていたそうなのだ。
それでも「日本百名城」の一つ(80番目に登録)であることには、城好きの人であってもちょっと異論があるかもしれない。
しかし私は、こういう近世城郭以前の「土の城」が好きなのである。
では、湯築城の全体図を見てみよう。このうち模型は、湯築城内の資料館に展示してあったもの。
この湯築城のレイアウト(縄張り)を見てまず感じるのは、「こういう楕円形の堀(しかも二重堀)に囲まれた城は珍しい」というものではないだろうか?
城の防御力のかなりの部分は、「横矢掛かり」できる箇所がどれだけ多いかに左右される。(城の本を読んでいると、嫌でもそう感じる。)
たとえばL字型・凹型の箇所の「線の内側」に敵が来れば、その進行方向の横側から弓矢・鉄砲を浴びせることができるからだ。
しかし、湯築城のような楕円型ではそれができない。
よって、湯築城は決して堅城ではないと言い切ってよいと思う。(実際、何度も陥落しているのである――二重堀が掘られる以前も含めれば。)