みなさんもうご存じだろうが、面白いtogetterがあった。
被災者が「千羽鶴はいらない」と言っていることに、人の善意を軽視するものだとして「生意気」「ふざけんな」「寂しい」と思う。感謝するのが当然の人の道だと思う。
こういうことを聞いて人が真っ先に思うのは――
この時代にまだそんなことを言う人間がいるのか、というものだろう。
被災地に千羽鶴を送るな、というのはもはや当然の国民的常識ではなかったか。この人たちはそんなことも知らないのか。
まさにこれこそ“情弱”というものではないか。
しかし待とう。これら「激怒・不快」のツイートをしている人たちは、曲がりなりにもツイッターを使っているのである。
「被災地に千羽鶴を送るな」という常識に、いくら何でも今まで触れていないわけがないのである。
そう、彼らは知っていてもなおそう思うのだ。
これは、(先天的だか後天的だか知らないが)いったん固まった個々の人間の「思い方・感じ方」というのは、容易に変化しないことを如実に示している。
さて一方、災害になると何でも不謹慎だと叩く人がいる。
「今日はこんなことがあった」と楽しい記事をネットに上げると、たちまち寄ってきて「被災者の気持ちを考えろ」「こんな時によくそんなことできるな」などと書き込むのである。
その楽しい記事を書いた人が、有名人でも何でもなくそこらの庶民であってさえである。
最近はこういう人を「不謹慎厨」、こういう現象を「不謹慎狩り」と呼ぶようだ。
しかし不思議に思うのは、災害があったら不謹慎だと言うならば、毎日毎日世界のどこかで何十人も死ぬ災害は起こっているのではないかということだろう。
コロンビアで、アフガニスタンで、タイで大災害があったとき、この人たちは日本における「楽しいこと」の自粛を呼びかけるのだろうか。
そうでないとすればなぜか。日本人には寄り添うべきだが、他国についてはそこまでしなくてよいということか。
いや日本だけに限ってみても、毎日のように事件・事故で人は死んでいる。
だったら日本国民はずっと喪に服し、楽しいことなど何も発信・受信しないのがあるべき姿ではないだろうか。
彼らの感じ方に従えば――
今この時に公民館でダンスを練習するオバチャンたちも、
カラオケに行く歌仲間も、お笑い番組・バラエティ番組を見る視聴者も流すテレビ局も、
ネットでエロ動画を見てシコる男たちも、
全て不謹慎で有罪になるはずである。
それとも「こういうことをしました」とネットにアップするのが悪いのであって、やること自体はいいのだろうか?
そうだとすれば、非常に奇妙な「不謹慎」の基準ではないか? (当然、やること自体を糾弾しなくてはならない。)
なお、官庁や企業から被災地に人が派遣されるとき、たいていはささやかな「出発式」が行なわれているだろう。
そのとき出発する人たちは、たいていの場合「拍手」で見送られているはずである。
それは見ようによっては、非常に不謹慎なこととも言える。
では我々は、拍手せずにただ見つめて見送るべきか。自衛隊でも消防でもないのに、敬礼して見送るべきか。
人を派遣するのは千羽鶴を送るより何億倍も有益な貢献だと思うが、それも拍手で見送ればたちまち不謹慎とされ、卑しむべきスタンドプレーと見なされるのか。
私は確信を持って言うのだが、やれ不謹慎だ何だと書き込んでいる人たちは、間違いなく自分も不謹慎なことをやっている。
彼らが今この時、ひたすら祈りと鎮魂の日々を過ごしているなどと、いったい誰が信じるだろう。
彼らが今も職場の同僚や遊び仲間と冗談を言い合い、笑い、飲みに行き――
趣味の雑誌なんかを読み、アニメやお笑い番組などを視聴し、
「不謹慎だ」と書き込んだ直後にソシャゲやアプリゲームをやり、
あるいはネット動画(の無料サンプル動画)でセンズリこいているだろうことは、ほぼ絶対の真実と言ってよい。
彼らがネットやテレビで災害情報しか収集していないなんて、これまた誰が思うだろう。
しかしそれでもなお彼らは、他の人がそういうことをやっていると聞くと「不謹慎だ」と感じるのである。
そして千羽鶴感謝論者たちもまた似たような毎日を送り、自分では千羽鶴さえ折っていないし(たぶん折り方も知らないと思う)募金もしないが、それでも被災地に千羽鶴は必要ないと聞けば不快に思うのである。
(また、どうせ、そういう不謹慎なことの合間にチョチョッと「不謹慎だ」「人の気持ちを考えろ」などと書き込んでいるだけでもある。
こんな“つぶやき”なんかにたいした価値や思い入れがあるわけがない。)
思うに、こういう人たちこそがいわゆる「全人格労働」を是とするのだろう。
仕事には全身全霊で没入すべきであり、それには“やりがい”があるはずだから“見返り”を求めるのは不謹慎で怪しからぬ、などとナチュラルに思うのであろう。
そしてもちろん、そういう人が世の中にはけっこうな数いるのである。
そうでなければこれほど「全人格労働」思想が蔓延し、人としてあるべき正しい姿だと思われているようなことは起こらないはずだ。
私見では、この手の「千羽鶴感謝論者」や「不謹慎厨」、「全人格労働は正しく美しいと感じる人」だけが死ぬならば、戦争も災害もそれほど悪いものではない。
たとえ財物に大きな被害が生じても、こういう人たちを一掃するコストだと思えばむしろ安いくらいである。
彼らがいなくなれば、世の中はより良くなるのは間違いない。
このブログでも何度も書いてきたことだが、あなたを抑圧するのは決して国家などでなく「あなたと同じ庶民」である。
現代は「人民が人民を抑圧する」時代であり――
思想警察の活動を行なうのもまた、国家ではなく自発的な一部人民なのだ。
こういう人たちを駆逐するには、とにかくバカにするのが最も効果があるのだろう。
(実際に彼らは、世の中にバカにされる意味での「意識高い系」だとするのが正解だと思う。)