プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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地震兵器、大川隆法の霊言、紀伊國屋書店の旧採用基準、HKT48「グリー」新曲 その2

 「幸福の科学」みたいなトンデモ宗教・トンデモ教祖を信仰する奴は我が社に採用しない――

 あえてこんなことを宣言する企業はゼロにしても、もし本当に宣言してしまえば、それはむしろネット界で英雄的扱いを受けるのではないかと思われる。

 もし熊本・大分の被災地の商店が「幸福の科学信者は入店お断り」と張り紙をすれば大きな反響を呼ぶだろうし、しかもそれへの反応は「当然だろ」「よく言った!」という種類のものが大半を占めるのではないかと思う。

 むろんこんな宣言や採用基準は“信仰の自由を侵すもの”“宗教差別”として指弾を受けて当然かもしれないが、しかし人の心の当然の反応とも言える。

 なにせ相手は、熊本地震天罰神罰だと言っているのである。


 そしてまた、紀伊國屋書店のかつての採用基準――

 カッペやメガネはともかくとして、「ブス、チビ、バカの女子は絶対採用するな」との基準は、本当にこの世からなくなったのであろうか。

 これは今でも、非常に多くの会社が(つまり我々人民自身が)明文化せずに取っている基準ではないのだろうか。

 
 航空会社がキャビンアテンダント(CA。旧称スチュワーデス)を採用するとき、

 テレビ局が女子アナを採用するとき、

 本当に容姿が採用基準になっていないとか二の次だとか、本気で思うほどあなたはバカでもウブでもあるまい。

 また、そうすべきだと本気で主張するほど狂信的な理想主義者でもなかろう。

 そしてまた、「チビは絶対いや」「自分より背の低い男は恋愛対象にならない」と女性が公言することは、世間でけっこう普通に行なわれていることではないか?

 男性が「ブスは絶対いや」「ブスは恋愛対象にならない」とテレビ番組など公の場で発言すれば、それはほとんど社会的な自殺に等しい。

 しかしその逆は――「私、自分より背の低い人、禿げてる人、太った人はどうしてもダメなんです」と女性が言うことは、なぜか“女子のホンネ”“当然の思い”として許容されているようだ。

 これは非常に不思議なことで、これとあれがどう違うのか、論理的・説得的に説明することはできないのではないかと思う。


 時あたかも、福岡を中心に活動するアイドルグループ「HKT48」の新曲が、女性差別的だとして猛批判を受けている。

 その歌詞は次のとおりである。

http://blog.livedoor.jp/akbg_kashi/archives/58056439.html からコピペさせていただいた。)


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HKT48 なこみく & めるみお

アインシュタインよりディアナ・アグロン

 作詞:秋元康

 作曲・編曲: FIREWORKS

 

難しいことは何も考えない

頭からっぽでいい

二足歩行が楽だし

ふわり軽く

風船みたいに生きたいんだ


女の子は 可愛くなきゃね

学生時代は おバカでいい

今 一番 大切なことは そう

キャピキャピと

音が聴こえることでしょう?


アインシュタインより

ディアナ・アグロン

テストの点以上

瞳の大きさが気になる

どんなに勉強できても

愛されなきゃ意味がない

スカートをひらひらとさせて

グリーのように

 

世の中のジョーシキ 何も知らなくても

メイク上手ならいい

ニュースなんか興味ないし

たいていのこと

誰かに助けてもらえばいい


女の子は 恋が仕事よ

ママになるまで 子供でいい

それよりも重要なことは そう

スベスベの

お肌を保つことでしょう?


アインシュタインって

どんな人だっけ?

聞いたことあるけど

本当はよく知らない

教科書 載っていたような

なんか偉い人だった

好きなのはディアナ・アグロン

 

もっともっともっと

輝きたい

人は見た目が肝心

だってだって

内面は見えない

可愛いは正義よ

チヤホヤされたい


アインシュタインより

ディアナ・アグロン

テストの点以上

瞳の大きさが気になる

どんなに勉強できても

愛されなきゃ意味がない

スカートをひらひらとさせて

グリーのように


*******************************


 いやはや、これもまたまた、凄まじいと言えば凄まじい歌詞である。

 こんな歌を出して大きな批判を受けないと作詞者(しかもあの秋元康である)が思っていたなど、とても信じられないように感じる。

 ちなみに、歌詞中の「グリー(gree)」とは日本でも人気の高いアメリカのテレビドラマで、「ディアナ・アグロン」とはその作品中のヒロインの一人。

 紀伊國屋書店の旧採用基準と同じく、この歌詞も“表向きは”激越な批判を浴びて当然である。

 しかし同時に、やはり紀伊國屋書店の旧採用基準と同じく、世の中の真実を言い当てている面が確実にある。

 ひょっとして世の(特に10代の)女子たちの多くは、本当にこう思っているのではないか。この歌詞にナチュラルに共感するのではないか―― 
 そして世の中もまた、そういう仕組みになっているのではないか?

 「難しいことは何も考えない 頭からっぽでいい」

 「女の子は 可愛くなきゃね 学生時代は おバカでいい」

 「どんなに勉強できても 愛されなきゃ意味がない」

 「世の中のジョーシキ何も知らなくても メイク上手ならいい ニュースなんか興味ないし」

 「それよりも重要なことは そうスベスベのお肌を保つことでしょう?」

 「人は見た目が肝心 だってだって 内面は見えない 可愛いは正義よ」

 というのは、本当に多くの女子が思っていることではないのだろうか。

 勉強ができるより美人でモテて愛される方が女子にとって実益がある、というのは、今の社会の現実から本当に遠くかけ離れていることだろうか。

(そして、『人は見た目が9割』という本がよく売れたのは、何を意味しているのだろう。)


 この歌詞に対し、ドラマ『グリー』のファンは特に反発を感じているらしい。

 引き合いに出されたディアナ・アグロン(の役どころ)は決しておバカキャラではなく、『グリー』自体もそんな軽い内容ではない、というのが反発の理由とのこと。

 私は外国のテレビドラマ・映画が好きな方だが、『グリー』は名前だけ知っていて見たことのない番組である。

 よって、このたび初めて「ディアナ・アグロン」で画像検索したのだが――

 間違いなく彼女はとびきりの美人であり、絶対にブスの部類の女性ではない。

 そして私は思うのだが、やっぱりこれは「勉強ができるより美人であった方が女性にとって利益がある」証明になっているのではないだろうか?

 ディアナ・アグロンがブスならば、いくら『グリー』が社会問題を盛り込んだドラマだったとしても、その主要登場人物役を割り振られることはなかったろう。

(そもそもテレビに出ること、本人が志望することさえもなかったと思う。)

 アメリカ人が容姿差別に対して日本人よりはるかに厳しい態度で臨む、というのは事実かも知れない。

 チビやハゲやブサイクをテレビ番組で笑いものにする/揶揄するなどということは、日本と違い絶対NGなのかもしれない。

 しかしそのアメリカ人も、やはり「美人資本主義」の原理原則を受け入れている――アメリカ社会がそういう構造になっていることは、疑いの余地がないように思う。

 そしてこれは、全世界がそうなのではないだろうか?

(ただし、イギリスなどヨーロッパ圏のミステリドラマなどでは、明らかに“そこらのオバサン・姉ちゃん”レベルの顔の女性が主役級の人物すら演じていることがよくある。この点、私は好意的に感じずにいられない。何となれば私は番組の内容を見ているのであり、美人を見ようとは思っていないからだ。女性の登場人物がことごとく美人だというのは、リアリティに欠けること夥しい。これはエロ動画を見るときの心構えとは全然異なる。)


 紀伊國屋書店の旧採用基準も、「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の歌詞も――

 表立ってはトンデモないとこぞって批判されながら、それらはやはり我々の心の裡(うち)に健在である。

 そして逆に、幸福の科学なんてトンデモない宗教だとは表立っては言われないが、しかしやはり人の心はそういうことを思っている。

 こうした二重基準は、人間の社会が終わらない限りずっと続くものかもしれない。