2ヶ月ほど前、若者の恋愛離れと未婚率の上昇について5本の記事を書いた。
(⇒ 2016年1月26日記事:恋愛離れと未婚率上昇の真因 その1 非婚化の三大要因)
(⇒ 2016年1月27日記事:恋愛離れと未婚率上昇の真因 その2 時間資源の有限性)
(⇒ 2016年1月30日:恋愛離れと未婚率上昇の真因 その3 「人と付き合いたくない」心理進化)
(⇒ 2016年1月30日記事:恋愛離れと未婚率上昇の真因 その4 結婚・恋愛の加重多重リスク、そして美人資本主義)
(⇒ 2016年1月30日記事:恋愛離れと未婚率上昇の真因 その5 甦る家康の旗―「ろくでもない現実を離れ、個人の楽土を追い求めよう」)
今回はそれに関連し、また前回までの保育園記事に続き、少子化について書く。
今の日本の社会政策の軸であり焦点なのは、疑いなく少子化(阻止)対策だろう。
女性が働きやすい職場づくり、育児休業の促進、保育園の充実、低賃金やサービス残業の是正などなど……ほとんどあらゆる政策が、結局は少子化対策に収斂する。
どの政策を推進するときも支持するときも、決まってそれが少子化を食い止めるために必要だとか有効だとか理由付けされる。
しかし一つだけ、その必要性と有効性がわかりきっていながら、全然主張されないことがある。
それが「早婚の奨励」である。
断っておくが、私自身は少子化を阻止しなければいけないと考えているわけではない。
別に人間がいない時代から地球が温暖化と寒冷化を繰り返してきたように、どんな国にも集団にも人口増加と減少のトレンドはあるものだろう。
今の日本は自然現象として人口減少期に入っているのだと思うし、むしろ今の人口は多すぎるのではないかとも思っている。
しかしもし、その解決を仕事として考えなければならないとすれば――
国民の婚姻年齢を引き下げることこそ最も効果のある策だと、真っ先に考えつくのである。
現代日本では、結婚適齢期は男女とも30歳前後と考えられている。
これは事実としてそうなっているというだけではなく、国民の意識としてもそうである。
つまりそれが普通で、好ましいこと/あるべき姿だとの共通認識が存在する。
女性が30歳を少し過ぎてから初めて結婚・出産することは、いまや全然普通であり「ま、普通に生きていればそうなるだろう」とみんな感じる標準的人生コースとなっている。
しかしこれが、生物としての最適解でないのは言うまでもない。
むろん少子化を阻止しようとする立場からは、なおさらである。
そして昔の人から見れば、(特に)女性の平均的初婚年齢が30歳前後だというのは、「そんなことあるわけないだろ」と大笑いする事実に違いないと思う。
子を産むのに最も適した年齢が20代であることは、誰しも異論がないだろう。
もし20歳前後で結婚すれば、その女性の生涯出生数が今より確実に増えることは考えなくても誰にだってわかる。
しかし初婚が30歳前後となれば、子作りの観点から最も生産的な20代を丸々失ってしまうことになる。
だったら少子化克服のため何を置いてもまず着手すべきは、国民の初婚年齢を引き下げることしかないはずだ。
ところがどっこい、そんなことを主張する人は一人もいない。
(これはオーバーな表現かもしれないが、「女性の社会進出を促進すれば出生率も上がる」と主張・賛同する人の数に比べれば寥々たるものであるのは間違いない。)
いや、それどころか国民は、20歳前後で結婚することを決して良いこととは思っていない――
と言うより、「良くない」「忌むべきこと」だとさえ思っているのである。
我々が「20歳で結婚して子を産んだ」と聞いて直感的に思い浮かべるのは、「早すぎる」という感想である。
「20代前半(20歳~24歳)で結婚した」と聞いても、それでもなお「早いな」と思うかもしれない。
いったいこんなことで、いくら保育園を増やそうと女性を働きやすくしようと、少子化が止まるわけがないと思うのは私だけだろうか?
たぶん今を生きる国民の共通認識としての本音は、「二十歳で結婚・出産する奴なんてロクなもんじゃない。程度が低い」というものだろう。
おそらくそういう認識ができあがったのは――
自分の子どもを虐待死させて捕まった連中のたいがいが二十歳前後であること、またはそのくらいの年齢で子を産んだ計算になることが、あずかって力があるはずだ。
我々は早婚・早期出産を祝福するどころか、それがいわば下層階級の証のようなものだと感じるようになっている。
だから自分も自分の子も、そうならないよう婚期と出産を意図的に後らせる――
せっかくの20代を(あくまで子を産む観点からは)ロスさせることを、自らの意志でやっている。
くどいようだが、これは「普通の」「まともな」大勢の人間のやっていることである。それならば出生率など上がる方がおかしいというものだ。
そして「20代前半で結婚するのが早すぎると思う」心と雰囲気が形成されたことには、もう一つの要因が挙げられる。
それは前回記事でも書いたが、「大学に行くこと」が「普通の・当たり前の人生」になったことである。