果たしてスマートフォン(スマホ)を持つことは、憲法の定める「健康で文化的な最低限度の生活」の要素を構成するのだろうか?
大方の人は、これに「否」と答えそうである。
しかしもちろん、「当然“最低限度”の範囲に入る。現代の社会情勢ではそうである」と言うこともできる。
生活保護を脱出するため、職探しの情報集めや求職活動をやっていくため、
あるいは子どもたちが「友達」から仲間はずれにされないため、
生活保護者やその子どもたちにとって、スマホを持つことはもはや「最低限の」生活要件であり権利である――
こういう主張は、現時点ではかなり大真面目に発信され、受け止められるのではないだろうか。
大勢の人が、これにはかなりの説得力があると感じるのではないか?
「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」という言葉が昔からあるが、どんなモノでも「最低限」「必要不可欠」の範囲に含めることは可能だ。
テレビやクーラーは昔なら「生活保護者が持つには贅沢すぎる品」という国民的・漠然的コンセンサスがあったかもしれないが、今ではおそらくそうでなくなってきているだろう。
ちなみに私は、スマホを持っていない人である。(むろん通信費が高くなるからだ。)
果たして私は、最低限度の生活を下回っているのだろうか。
国は(つまり赤の他人の集合体は)私や、私と同じ理由でスマホを持っていない人たちに、現物や購入費を支給すべきだろうか。
ひょっとしたら私たちは、そういうことを国に(=他人に)要求してもいいのではないか……?
「最低限度の生活」とはどんなものなのか、憲法も生活保護法も明確に規定しているわけではない。
スマホを持つことが最低限なのかどうか、どこかの法律にちゃんと書いているわけではない。
厚生労働省とか市区町村の「内規」(一般人は見れない、職員だけが見ている内部資料)には書いてあるのかもしれないが、それだって全ての事柄について規定できているわけはない。
仮にそんな不可能事ができていたとしても、公表されていないなら(外部に示せないなら)何の意味も効力もないことである。
このたび別府市と中津市が、国・県から「パチンコしたら保護費を停止・減額するなんて法律のどこにも書いてないぞ」と指導されて「じゃあそういうことは止めます」とアッサリ白旗を掲げたのも、当然と言えば当然である。
基本的に、「内規」なんて対外的には何の効力もないからだ。
特に、「生活保護者が使ってはいけないカネの使途」の内規など、膨大すぎてとても作れないものだからだ。
生活保護者は、株式投資をやってもよいか。
それは“ギャンブルだから”ダメなのだろうか。
それは、資産形成の自助努力には入らないのだろうか。
就職活動のためにカネを使う(スーツ購入とか、面接会場への交通費とか)はよいが、資産を増やすための株売買はしてはならない――
これは、あまりにも旧時代的なものの見方ではないだろうか。
こういう見方をバカにする人は、生活保護者がパチンコをすることを否定する人とかなり重なっていると思われるのだが……
そしてまた、「生活保護者が生命保険に加入する」ことはどうだろう。
生命保険に1本ぐらい入っておくことは、確かに「人並み」の家庭では当たり前のことだろう。
生活保護者の自分が死んだら、その子どもはさらに困窮することになる。
だから生活保護者が生命保険に加入すること、受けた保護費を保険料に充てることは、許されてよい。
いやそれどころか、その保険料分を生活保護費に上乗せして支給するのは、国の(しつこいが、赤の他人の集合体の)当然の責務であってよいのではないか――
こうした疑問のリストは、やる気さえ続けばいくらでも挙げていくことができるだろう。
「最低限の生活」とは、かくも曖昧で規定しがたいものなのだ。
しかし、その基準を設定することは、全く手が着けられない難題とも言い切れない。
そのヒントは、「人並みの生活」と「最低限の生活」とは、明らかに違う点にある。