プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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広島中3自殺事件雑感 その3 不可思議なやりとりの真相は?

 さて、前回記事の時系列で最も問題なのは、「6.2015年11月16日(月) 面談1回目」である。

 次のようなやりとりがあったと考えられる日だ。


 担任教師「万引きがありますね」
 自殺生徒「えっ」
 担任教師「3年の時ではなく、1年の時だよ」
 自殺生徒「(間を置いて)あっ、はい」。「万引きのことは、家の人に言わないで」


 このやりとりが真実を伝えているとすれば、担任教師が「この子は万引きをした」と確信するのは当たり前である。

 担任教師のみならず、百人中百人がそう確信するに違いない。校長に「触法行為が確認できた」と報告するのも、無理からぬことのように思える。

 もし生徒が潔白だとすれば、そのやりとりは当然次のようでなければならない。 


 担任教師「万引きがありますね」
 生徒「は?」
 担任教師「3年の時ではなく、1年の時だよ」
 生徒「いや、そんなことしてないんですが」
 担任教師「記録があるんだけど」
 生徒「いやいや、それはおかしいです。僕そんなことやってないです」


 いくらこの生徒が「揉め事を嫌う、優しい子」だったとしても、二人の会話がこうならなかった(らしい)のは謎である。

 私は殺人をする少年少女にそんな大層な“心の闇”があるとは思わないが、この件に対しては確かに闇(ブラックボックス)があると感じる。


 そして、さすがにこう返されれば、担任教師も記録を調べ直しただろう。

 誤って自殺生徒の名が記された「会議資料」だけを見るのではなく、彼が1年生の時の担任その他の教師たちにも聞いてみただろう。

 別のフォルダに保管してあった「報告書」(万引き生徒の名前が正しく書いてある)を見つけた可能性もかなり高い。


 むろん自殺生徒の両親が、このやりとりを疑わしいものと見なすのも当たり前である。

 もし本当に前者のやりとりが真実に近いものであれば、それは誰だって「この生徒は万引きをした」と思うからだ。

 しかもこのやりとりというのは、当然ながら担任教師の自己申告。

 その真の内容は彼女と自殺生徒しか知らず、しかも彼女しか生き残っていない――

 死人に口なし、できるだけ自己弁護できるような内容(つまり嘘)を語っている、と見ることには充分な根拠がある。


 ただそれは、自殺生徒が両親に対し「どうせ(何を?)言っても先生は聞いてくれない」と言っていた――という話にも全く同じことが言える。

 この話を聞いたのは両親だけであるのだから、信憑性は担任教師の自己申告と全く等しい。

 そしてもう一歩踏み込んで言えば、「どうせ言っても先生は聞いてくれない」というのは、それ単独では成り立たない“親への相談・愚痴”ではないだろうか?

 これはいったい、どういう会話の文脈の中で出てきたのだろう。また、その後の会話はどうなったのだろう。

 
 そんなことを子どもが言えば、当然「何のこと?」と聞き返さないわけがない。

 しかし、これについては報道は沈黙しているようである。(私も全部の報道記事を読んでいるわけではないことは、言うまでもないがお断りしておく。)


 さて、現代に生きる我々は、こういうケースで大人が自殺した場合、「潔白なのに疑われたのを恥じて自殺した」とはあまり考えない。

 逆に「やっぱり後ろめたいことがあるから/何か人に言えない秘密があるから自殺した」とほとんどの人が考える。(違うだろうか?)

 それなのに子どもの場合ならそう考えない、考えてはならない、というのには理由がない。

 もしそういうことを言うのであれば、今後事件関係者が自殺した場合、「ほら見ろ、やっぱりあいつは悪いことしてたんだ」などと言う人(ネット民など)は徹底的に糾弾しなくてはなるまい。

 どうも私には、自殺生徒には“何か”があったと思えてならない。

 具体的に言えば、別の件で(本人はバレていないと思っていたのに)万引きをしたのではないかと思えてならない。

 それを突然担任教師に言われ、ものすごいショックを受けた――

 あくまでも「例のやりとり」が正しいものだと仮定してのことだが、これは辻褄の合う推測に感じられる。

 しかしたとえそうだとしても、万引きが悪なのは当然のことだとしても、自殺するほどのこととはとても言えない。


 ――今回の記事は、まるで“本能寺の変の真相を探る”のような話になってしまった。

 しかし報道記事を元にするのも史料を元にするのも全然同じことなので、これはやむを得ないことである。

 そして私が本当に強く感じるものがあるのは、事件の真相についてではない。

 それは(以前の記事でも書いてはいるが)、教師という職業がつくづく危険極まるリスクフルな職業か、ということについてである。