プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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【まとめ記事】副業禁止は明白な憲法違反ではないか?

 「副業禁止」に関する、最近の記事をまとめた。

2016年2月26日記事:副業禁止は明白な憲法違反ではないか? その1 自由の抑圧を支持する人たち

2016年2月28日記事:副業禁止は明白な憲法違反ではないか? その2 集団的自衛権と先制予防自衛権①

2016年2月28日記事:副業禁止は明白な憲法違反ではないか? その3 集団的自衛権と先制予防自衛権②

2016年2月28日記事:副業禁止は明白な憲法違反ではないか? その4 後で言うのは詐欺である― 就業規則を公開せよ

2016年3月1日記事:副業禁止は明白な憲法違反ではないか? その5 経済効果と自助の精神


 さて、ここから本記事の本文である。

 世の中の副業している/したいと思っている人は、カネに困っているのだろうか。
 本業では食っていけないから、「やむなく」そんな状態に追い込まれているのだろうか。
 副業したいと思うのは、不幸なことなのだろうか。
 どうもそういうイメージは、現実から乖離していると思われる。

 

 副業をやる動機とは様々だ。
 小遣い稼ぎがしたいからとか、第二第三の収入源を確保・開拓しておきたいからとか、趣味の延長であるとか、自己実現のためだとか――
 そういう希求を、国でさえなく職場が、つまるところ「身近な他人」が禁止するのが正しいとは/そもそもできるとは、私は全く思わない。
  
 “本業の職場が副業を禁止するというのなら、その職場は、従業員がそれだけで生活していける充分な給与と福利厚生を与えよ”。
 こういう主張は、逆を言えば「充分な待遇を与えれば、勤務時間外でも従業員を拘束してよい」ことになる。
 職場自体がそんなことを言う(言いたくなる)のはわかるが、しかしそれに従うべき理由ってあるのだろうか。
 この問題の本質は経済的なものでは全然なく、あくまで「人間の自由」なのである。

 

 はたして我々は、「副業しなくても生きていける社会」を目指すべきなのか? 
 私にとってそういう意見・理想は、どうでもこうでも「人間はただ一つの職場に属するのが正しい」あるいは「美しい」と言っているように聞こえる。
(そして私は、本当に目指すべき社会は「興味もない仕事に就いて働かずに済む社会」だと思う。)
 やはり「忠臣は二君に仕えず」――「まともな人間はただ一つの職場に属する/ただ一つの収入源に依存する」ものだ、とかいう江戸時代式武士道のように聞こえるのである。

 

 一つの職場に全人的に属せよ、すなわち「一点集中投資せよ」「一つのことに集中せよ」というのは、投資相談とかライフハックのアドバイスとしてならまだしも聞く価値がある。
 「虻蜂取らず」とか「二兎を追う者は一兎をも得ず」とは、昔から言われてきたことである。 
 しかしながらそれはもう、アドバイスなどという域を超え、人民に浸透した道徳律になってしまっている。
 だいいちこんなこと書いている私にしてからが、人が副業をやっていると聞くと、

「え、そんなことやっていいのかよ」⇒「いやいや、もちろんいいに決まってるだろう」

 という反射的な思考プロセスを数秒のうちに踏んでしまうのである。


 副業することを「不幸」と見なすより前に「不埒」と見なす考え方は、日本国民の中に深く根付いていると言わねばなるまい。
 株式投資、ブログでのアフィリエイト、講演・著作などと言った“収益活動”が、本当に本業に悪影響を及ぼすとはちょっと思いがたい。そう思うのはこじつけと言うか、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な思考と言うのが適当だろう。


 しかしそれにも関わらず、こういう活動さえ「本業以外で収入を得ている」というただ一点で問題視・罪悪視する人はゴマンといる。
(きっとあなたの職場にもいる。あなた自身がそうかもしれない。)
 こういう人は「小役人」と形容されることが多く、誰も擁護する存在ではないはずなのだが――
 しかし現実には、大勢の人が現役の小役人を務めているのが世の実態ではないだろうか?

 副業を禁じているのは国ではなく、職場である。
 こんな自由の制限は法律なくしてできないはずだが、そしてまたローカル組織が決めただけのそんな制限は無効のはずだが、なぜか人民はそんなことが正しいと思い、自発的に支持もしている。自由の制限に手を貸している。
 まるで地方豪族や封建領主の束縛に従うのを善とし当然のこととした中世めいた心性が、この現代日本に厳として存在する。
 これはまた、現代の「一所懸命」思想と言ってもいいのだろう。(一つの組織・収入源に依存するのが「あるべき姿」だと思う、という意味で。)

 再び、自著から引用する。


(引用開始)*******************************


 今の日本は、日本人の意識の中では中央集権国家ではなく、それ以前の地方豪族の集合体ではないだろうか。
 その現代における地方豪族的存在とは、むろん地方自治体のことでなく個々の職場を指している。

 「自分は国には服従しない、それは危ない思想で間違っている。でも職場には服従すべきだと思う。それが人間の正しい道だ」とするのが現代日本の雰囲気であり道徳律である。
 国や自治体の権威は認めない一方で、職場の権威には服すべきだと思われている。
 たとえ職場(の人間たち)というものが、かつての封建領主ほどにもその帰属者を守ったり気にかけてくれはしないと百も承知であってもである。

(中略)

 プライバシーへの検閲・干渉、出版の自由をはじめ諸自由を許可に係らせること、そういうことを職場がするのはやむを得ない/必要だなどと考えるのは、職場の人間や顧客といった「身近に接する人」との関係を損ねたくないという恐れの帰結ではないか。
 それはまた、身近なボス的人物に睨まれたくない度胸のなさの現れでもあるのではないか。
 思えばあなたの人生を振り返ってみて、国に酷い目に遭わされたことがあっただろうか?
 望まない干渉をされたことがあっただろうか?
 そういうことをやってきたのはいつだって、身近な個人または集団ではなかったか?


『尊敬なき社会(下)』第2章 職場と国家 我々は「繋がった仲間」なのか


(引用終わり)*******************************


 くどいようだが、もう一度言う。
 副業禁止を実施し、それを正しいと思うのは、国ではなく人民(の雰囲気)である。
 人民が人民の自由を抑圧しているのである。