プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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お笑い「80年代体制」と志村けんの古典芸能

 4月2日、フジテレビで志村けん追悼特別番組が2時間放送された。

 その全国視聴率は、21.9%。最近のテレビ界では記録的な視聴率と言うべきなのだろう。

 私も(全部ではないが)見たが、たぶん皆さんも思ったことをやはり思った。

 それは、志村けんの芸というのは、ほとんど「古典芸能」のように感じられる、ということである。

 現代のお笑いと言えば、「漫才」と「ひな壇トーク」の2つに大別できるように思う。

 しかし志村けんはそのどちらもやらず、言ってみれば大昔風の、「しゃべりではなく体を使う芸」を一生やってきたように感じられる。

 たぶん『8時だヨ!全員集合』を見ていた世代は――

 近未来のテレビのお笑い番組というものは、ますます大がかりなセットを使うドタバタ劇に「進化」していくものと思っていたはずである。

 ドリフのドタバタ劇では、「2階建ての家のセットが崩壊する」なんてことが、毎週のように?起こっていたからである。

 しかし時代は、むしろお笑い劇のスケールが「縮小」する方向に進化していった。

 もはや漫才では、志村コントには必須みたいなものであった「背景セット」が用意されることもない。

 ひな壇トーク番組などは、出演者の出演料以外は極めて制作費が安くつく。

 そしてそれが今は、お笑いの「完成」した形態となった。

 そういう番組を毎日のように見て、それが当たり前のものだと思っている今の世代にとっては――

 ドリフや加トちゃんけんちゃんから死に至るまでの志村けんがやってきた、「セット」と「ストーリー」のあるお笑い劇というのが、なんとも古色蒼然としたものに見えてもおかしくない。


 そしてもう一つ、「志村けんの芸は(今の芸人の、人をけなして笑わせる芸と違い)、誰も傷つけない芸風だから好き」と多くの人が言うが……

 しかし今の基準で言えば、それが年寄りや精神障害者の仕草をバカにして笑いものにしている、と見なされても仕方ない面も濃厚にある。

(実際、海外では、志村けんの芸に女性蔑視・女性嫌悪の側面があるとも言われているようだ。)

 
 だが、その古色蒼然として、かつポリティカル・コネクトネス的にマズいかもしれない芸をやってきた志村けんは――

 21世紀の20年代になっても、

 明石家さんまタモリビートたけしの「お笑い御三家、ビッグスリー」と並ぶ、お笑い界の大御所であり続けた。

 おそらくそれは、1980年代に築いた知名度によるものである。

 いや、志村けんに限らずお笑いビッグスリーも、

 そして今の芸能界全体でさえも、この「1980年代体制」というものの産物だと思われる。

 政治の世界に「55年体制」あれば、芸能の世界にも「80年代体制」というものがあるのである。


 1980年代は、今から見れば「全国のみんなが同じテレビ番組を見ていた」時代の極盛期だ。

 それは偶然か必然か、「日本という国自体の最盛期」と一致していた。

 この時代に地上波テレビで活躍していた人たちは、そのおかげで30年が経過した今でも全国的知名度を――文字通り「国民の誰でも知っている」知名度を築くことができた。

(この種の人間の中で日本における最初で最大の先駆者は、プロレスの力道山であることは言うまでもない。

 そしてアントニオ猪木もまた、かなりの部分、80年代体制の産物である。)


 たぶん、ちょうど2000年当たりを境として、この「誰もが同じテレビ番組を見ていた」時代は終わった。

 あるいは今現在も、終わりつつある過程にある。

 志村けんもお笑いビッグスリーも、「もうこんな偉大なコメディアンは出てこない」と言われるのは、おそらく正しい。

 それはもう、彼らを生み出したような時代は戻ってこないだろうからである。

 プロレスでは「思い出補正」とか「思い出には勝てない」――いまどんなスゴい試合をしても、過去の記憶があるベテラン選手には勝てない――と言われるが、

 80年代の(全国地上波テレビで活躍したという)莫大な資産を持つ芸能人には、やはり今でも大物と呼ばれるだけの存在感がある。


 そして私も確かに、志村けんの「古色蒼然とした古典芸能」に、大笑いさせてもらった記憶がある。

 何の世界でもそうだが、別に最先端のものが常に古いものより面白かったり「上」だったりするわけではないのである。 
 
 それが「思い出補正」と――とりわけ「自分の子ども時代の記憶」と結びついたら、なおさら古いものの方が勝つ。

 あるいは、好ましく思える。

 そして今から数十年先、芸能界80年代体制がついに終わったとき――

 その訃報が「偉大なコメディアンの死」として伝えられる人には、誰がいるのだろうか。

志村けん、コロナで死去…「この人はいつどうやって死ぬ」と過去の自分が知っていたら

 新型コロナに罹患して闘病中だった志村けんが、3月29日11時30分に亡くなった。享年70歳。
 3月17日に倦怠感を覚えて自宅療養入り、20日に病院搬送、23日に新型コロナ陽性反応、
 21日は既に人工呼吸器を着けたが、そのとき麻酔で眠ってからは意識がなかったという。
 自覚症状が出てから死までがあまりに急速で、こんなことがイタリアなどでは毎日何十人・何百人にも起こっているのだ。

 さて、これは誰でも思っていることだと思うが、志村けんと言えば「ドリフターズで最後に入ってきて、最も出世した男」である。
 たぶん「荒井注」という人の名は、「志村けんの前にいた人」という知識しかない人が大部分を占めるだろう。
 私も「8時だヨ!全員集合」世代で、あの有名な「停電事件」もテレビで普通に見ていた記憶がある。
 そして志村けんは、子ども時代の私にとっては、最初に認識した面白すぎる「お笑い芸人」(と、当時は言っていなかったと思う)であった。
 ドリフ時代、加トちゃんけんちゃん時代、そして顔面白塗りのバカ殿姿……
 今回の突然の死去の報を受けて、自分が子ども時代の記憶を(ブラウン管のテレビがあった昔の自宅の情景を含めて)思い起こした人も何百万人もいたのではないか。

 そこで思うのは、1980年代の当時、ブラウン管テレビの前で笑って志村けんを見ていた子ども時代の自分に――
 「この人は、2020年3月29日に新型コロナという病気で70歳で死ぬんだよ」
 と教えてあげたら、どうだったろうという想像だ。
 未来を知ることは、必ずしも良くも幸せでもないと言われる。
 そんなことを言われたとしたら(そして信じることができるとしたら)、やはり当時の自分は、志村けんをそういう目で見てしまうだろう。
 心からは笑えないだろう。
 そしてやはり、これからドリフやバカ殿の過去の映像を見るときは、まさにそうなってしまうだろう。
 
 プロレスファンであれば、三沢光晴の過去の試合を見るとき、
 「ああ、この人は2009年6月13日に広島での試合で死んだんだ。死ぬことになるんだ」
 と必ずや思うに違いない。それと同じことである。
 
 「見習い」から「日本の喜劇王」とまで言われるようになった、まるで太閤立志伝のような人生は、芸能生活50周年を迎えた年に、ある意味これ以上ないほど劇的な幕切れを迎えることとなった。
 何百万人もの人に、何十年も前の自宅や学校での光景を追憶させて――

コロナ危機と「これだけ言っても出歩く」心理-日本には衝撃映像が足りない

 東京都をはじめ、市民への「外出自粛要請」が出されてもなお「不要不急」の外出を続ける人が多いのは、テレビなどでご存じのとおり。

 花見とか、観光とか旅行とか、気晴らしの買い物とか、友達と飲みに・遊びに行ったりである。

 こういう人たちを「危機感なしのバカ」と片付けるのは簡単だが、しかし気持ちはわからないではない。

 「要請」は要請であって「強制」ではないのだから、別に応じなくてもよい。

 ましてや政治家や役所からの要請であれば、つい反発心が湧いてしまう――ケッ、政府なんかの言うことなんて――のは、現代日本人としてごく普通の感覚と言ってよい。

 それとはまた別に、そして根源的に――

 人間、「外を出歩きたい」という欲望は抑えがたいものがあるのだろう。

 一方で「誰にも会わずに家に閉じこもっていたい」という願望も人間にはあるが、

 しかし「外出したい、用がなくても」という気持ちを抑制するのは、なかなか難しい人の方が多いのである。

 かく言う私もほぼ家に閉じこもってはいるが、やっぱり天気が良いと外に出たくてウズウズすることも確かにあるのだ。

 だがもちろん、今はとにかく極力外に出るべきではない。

 ましてや人が密集しているとわかっているところにわざわざ出かけていくなど、愚の骨頂としか言いようがない。

 
 では、政府や役所が外出を控えるよう呼びかけても、従う気がほぼ全くない人を家に閉じこもらせるにはどうしたらよいか。

 むろん、正式な緊急事態令・外出禁止令(戒厳令とも言う)を出せば、さすがに多くの日本人は観光旅行くらいは止めるだろう。 

 しかしそれよりもっと効果がありそうなのは、テレビやネットで「衝撃映像」を流すことではあるまいか。

 それは、感染が大流行しているヨーロッパの、臨時死体置き場や暴動中の街頭の様子を流すことである。

 あるいはまた、海外で死亡した(やや著名な)日本人の名前と顔写真を逐一報じることである。

(もちろん、現に闘病中の志村けんが死亡でもすれば、さらにインパクトは大きくなる。)


 今の日本に足りないのは、「衝撃映像」である。

 「今日は何人感染が見つかりました」といくら報じても、(まだその数は総人口に対して相対的に少ないので)人は危機を実感しないものだ。

 別に日本人に限った話ではないのだろうが、衝撃映像こそ人の心によく響く。

 テレビなどメディアが「倫理的な・無難な」キレイな映像を映し続ける限り、外出を自粛しようなんて気にならない人の方が、ずっと多いのがデフォルトと思った方がよい。