プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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港区南青山住民は児童相談所がお嫌い?-「鼻持ちならぬ階級意識・差別主義・ヘイトスピーチ」と言われるに違いない話

 前から報じられていたことだが、東京都港区が南青山に造ろうとしている仮称「港区子ども家庭総合支援センター」(児童相談所などの複合施設)が、周辺住民の反対で難航しているらしい。

 そして12月14・15日に区が開いた説明会では、延べ300人が集まって立地質問が集中し、紛糾したとのこと。

(⇒ 朝日新聞 2018年12月15日記事:青山ブランドに「児相の子つらくなる」 建設に住民反発)

 
 もちろん、これに対するネット世論が、この周辺住民への非難・批判一色に染まるのはわかりきっている。

 何と言っても、こともあろうに児童相談所を迷惑施設扱いして建設反対しているのである。

 これが世間にボロカス叩かれずに済むはずがない。

 むろん当の周辺住民からは

「アンタらは実際に自分が住んでないからそんなこと言えるんだ、

 もし自分が住んでたらアンタらも反対するだろ」

 と反論したいところだろうが……

 こと児童相談所については、別に自分の家の近くにそんなのができたとしても、別に反対しようとは思わない――

 というのが、ほとんどの人間の普通の感覚だと思われる。(そして私もそうである。) 


 また上記記事に記された周辺住民の声というのが、もう間違いなく普通の人間の共感を呼ばないものばかりである。


●なぜ高い土地を買って南青山につくるのか?

●保健所がある三田ではダメなのか?

●人口が増えている港南地区にすればいい


 とか、「とにかく自分のところに造ってくれるな」というホンネを、ほんのわずかでも隠すことができていない。

 これは言うまでもなく、他人にとっては「身勝手」と決めつけられても仕方ない。

(たぶんこの周辺住民も、説得力ある口実を考えるのに苦労しているはずである。)


 中でも特にボロクソ言われそうなのは、最後に記された「近くに住む女性」の意見だろう。


●3人の子を南青山の小学校に入れたくて、土地を買って家を建てた。

●物価が高く、学校レベルも高く、習い事をする子も多い。施設の子が来ればつらい気持ちになるのではないか。

●青山のブランドイメージを守って。土地の価値を下げないでほしい。


 いったいなんだコイツは、とんだ自慢話じゃねぇか、この鼻持ちならぬ階級主義者・差別主義者めが―― 

 という風に感じない人間を探す方が難しい。

 ことに「施設の子が辛くなるのではないか」というのは、油と言うよりガソリンである。

 ホントよくも言いも言ったり、「自分は施設の子のことを考えてモノを言ってる」と言いたいのだと丸わかりのこういうセリフは、人に「なにを~」と思わせること必定だ。

 こんなこと、発言者にだってわかってないはずはないのだが、それでも匿名なら言えちゃうところが本当の「社会の闇」なのかもしれない。

 これはまるで、プロレスにおける鼻持ちならぬ高慢型悪役レスラーのセリフなのだが……

 あんな戯画のような嫌な奴が現実世界にいるわけがない――なんてことはなく、当然実在するのである。

 人の心の中なんて、何をどう思ってるかわからないものである。

(しかしもしかしたらここに集まった人たち、普段から周りの人に実は嫌われてるのかもしれない。

 そういう風に感じることは許されるだろう……)


 たぶんこのニュースを聞いた大勢の人は、

「世界よ、これがニッポンだ」

 とか、皮肉な笑いを浮かべたくなるのだろう。

 しかし、港区区民と南青山住民のために言っておくと――

 そこに集まって反対意見を述べた周辺住民というのは、2日間で「延べ」300人「だけ」である。

 「延べ」なのだから、同じ人間が1日目と2日目に来たのなら2人とカウントされる。

 そしておそらくそういう人が多いだろうから、実数となると100人ちょっとではあるまいか。

 さすがに周辺住民というものの総数は、そんなには少なくないと思われる。

 つまり別に、(何だってそうなのだが)全員が反対しているわけではない。

 
 とはいえ世の中には、児童相談所を迷惑施設と見る人が実在する。

 児童相談所ができるとブランドイメージが下がり、土地の価値が下がるというのを、本当に公の場で口にする人がいる。

 これは世に言う「ヘイトスピーチ」の一種だと思うのだが、なぜか大手のマスコミでそう言って糾弾したり、正面切って社説を書くところはないようである。

 それはもしかしたら、今まで「住民の反対」を錦の御旗のように書き続けてきた、歴史的経緯と惰性によるものなのだろうか……

「フィギュアスケートは金持ちボンボンのやること」批判がないのはなぜか?-「生まれつきの能力」に全面降伏する時代?

 フィギュアスケートの新女王として、弱冠16歳の紀平梨花が絶賛を集めている。

 そしてフィギュアスケートとは、今の日本で「最高峰のスポーツ」と庶民にまで思われている存在に成り上がったのかもしれない。

 それはそれとして、今から述べるのは別に批判ではない。

 ただ「素朴に思うこと」を淡々と書いていく。

 
 基本的にフィギュアスケートとは、金持ち一家の子女のやること(親がやらせること)である。

 こういうものには当然に「あんなの金持ちのお遊戯だろ」という批判や悪口が浴びせられるものだが――

 この有象無象が好き勝手なことを書き込むと思われているネット上にさえ、そんな意見は全然見られないのはなぜなのだろう。

(むろん私は、四六時中ネットを見まくっているわけではないが……)


 それでいて「格差」や「貧困」に関する記事は毎日毎日大量にアップされているというのに、なぜフィギュアスケートには――

 いやそれだけに限らず、誰々選手の年俸が何億だとか、誰々選手のCM収入は何千万だとか、

 およそスポーツ選手が庶民の何十倍何百倍の稼ぎを得ることについては、なぜ全く批判の声が上がらないのだろう。

 ネットには現に貧困であったり、貧困の存在に憤りを感じている人が夥しい数いるはずなのに、彼らのほとんど誰一人としてスポーツ界の「金持ち批判」を行わないのはなぜだろう。

 ネット上の百人百出の意見の中には、そんなのがあって当然なのに……

 これは深く考えるまでもなく、素直に不思議なことのはずだ。


 その一因としては、なぜか日本人も(たぶん)世界の他の人たちも、ことスポーツについては異様に寛容だ、ということがあるのだろう。
 
 あなたはたとえ共産党社会主義政党でさえ、スポーツ選手の高額報酬を批判する声を聞いたことがあるだろうか。

 そういう声がないのはおそらく、そんなことを言えば世間から叩かれまくるからである。

 おそらくは、本物の貧困層からさえ共感が得られないからである。


 そしてなぜ共感が得られないかと言えば、それは――

「自分の才能で(ついでに努力して)勝ち取った成果について文句を言うのは、見苦しい」

 という道徳観が、世界に広く広まっているからだと思われる。

 しかし同じことは、総資産何千億円とか何兆円とかいう超大金持ち層――昔で言う「資本家」――にも完璧に当てはまる。

 なのに今でも資本家は、いやそれに満たない程度の会社の「経営層」ですら、一般庶民の敵視から免れていないというのは、思えば奇妙なことだろう。


 もっとも、資本家を庶民が敵視するというのは、今となっては古い認識かもしれない。

 なぜなら書店にもネットにも、いわゆる「天才起業家」「天才経営者」を褒め称える本はかつてなく広まっているからである。

 むろんそれは、庶民が現実に買っているからそうなっている。

 売れ行きがいい(と出版社が判断する)から、続々とそういう本が出る。

 
 ここから思いつく感想は――

 どうやら今の日本も世界も、人間の「才能」というものをケチを付けずに賞賛することが道徳になっている、ということだろうか。

 そこに格差批判や個人崇拝批判を入れてくることはほとんどタブーで、

 そんなことをする奴は良く言って無粋、悪く言えば「とんでもない下劣な奴」と評価される、ということである。

 つまり現代の、少なくとも日本を含む先進社会は、人間の「生まれながらの能力」を賞賛せねばならない――そうしないのは反道徳的である――社会になっているのだろう。

 これすなわち、たまたま金持ちの家に生まれたり優れた才能を持って生まれてきた人間が活躍するのを、批判したり揶揄してはいけないということになる。

 何のことはない、昔は生まれながらの「家柄」で決まっていた人間の運命が、現代では生まれながらの「能力」や「幸運」で決まるということだ。

 そして昔は「家柄批判」は許されもしないし、そもそも考えられもしなかったのと同様――

 現代では「生まれつき批判」はネットに書き込むことも雰囲気的に許されないし、そもそもそんなこと頭に思い浮かべてもいけないのである。

(そんな奴は、性根がゲスだと自己批判すべきだということになる。)


 素朴に考えて、これは格差や貧困を固定化したり肯定化する雰囲気である。

 しかしながら先に言ったように、そういう雰囲気を批判する人は、ネット上にさえいないのである。

 金持ちや優秀能力者が世界的に大活躍するのを見れば、まともな感性を持つ普通の人間が皮肉の一言でも言いたくなる/書き込みたくなるのは、実に当たり前のことだ。

 それでいて現実はそうなっていないのだから、現代人はやっぱり「生まれつき」というものに全面降伏している、ということになるのだろうか……

聖闘士星矢のアンドロメダ瞬が女性化で批判、の今更感-「美しくなければ何にもなれない」問題

 往年の人気漫画「聖闘士星矢」が、Netflixで来夏に新エピソード放送開始になるに当たって――

 そのキャラの一人アンドロメダ瞬」が女性に設定変更されるということで、原作ファンの間で批判と動揺が広がっているという。

nlab.itmedia.co.jp

 
 脚本家(外国人)によると、この改変の理由は――


●青銅聖闘士が全員男性であるという点に、引っかかりを覚えた

●30年前であれば、世界を救う戦士が少年たちだけでも違和感はなかった

●しかし、男女が平等に働くようになった現代において全員男性のチームを描くことは、「良くも悪くも、視聴者が何らかの意見表明(STATEMENT)と解釈してしまう可能性がある」


 からだそうだ。

 誰でも感じるのは、これが政治的に正しい意見だとすれば、これから作られる「世界を救う」系の作品では……

 そのチームを必ず男女混合にしなければ、最低一人は女性を入れなければ、女性蔑視の意見表明として世間からボコボコに叩かれるのだろうか、という疑問だろう。

 では逆に、あのセーラームーンとかにも最低一人は男を入れなくては、今となっては正しくないことになるのだろうか。

 そして、昔からスーパー戦隊シリーズには1人は女性メンバーがいたものだが、この視点からは「合格」なのだろうか。

(ただし、メンバーが5人ではなく3人しかいなかったサンバルカンは、3人とも男だった。

 やはりこれは「失格」だろうか。)

 

 いや、今は戦隊シリーズ5人のうち2人までが女性であるのが普通だが、この人数比率も問題とされるべきではないか。

 つまりこれからの戦隊シリーズ、「世界を救う」系の作品は――

 主要メンバーを偶数にして、男女半々にする必要があるのではないか?

 そういう方向に話が行くのは、むしろ当然のことである。


 しかしながら実のところ、世界を救う系だろうと何の系統の創作物だろうと――

 その主要メンバーの中には間違いなく女性か女の子が入っている、

 もしくはその全員が女性か女の子である、

 というのが日本においては圧倒的多数を占めているのは、もちろんみんな知っている。

 女性化という点で言えば、アンドロメダ瞬どころか軍艦やパソコンソフトまで擬人化し美少女化されているのだから、何を今さらという感じだ。

 そしてその理由が男女平等とかそんな政治的・理念的なものではなく、もっぱら商業的な理由であるということも、みんな知ってないはずがない。

 

 女性キャラを入れるのは、もちろんそれがカネになるからである。

 また言うまでもないが、その女性キャラというのは全員が美人・美少女であって、間違っても(現実世界には普通にいるような)不美人やイモネーチャンではない。

 そして今回のアンドロメダ瞬にしても――

 つい先日誕生した「初の男の子プリキュア」と同様、またしても「初めから女の子みたいな美少年」である

tairanaritoshi-2.hatenablog.com


 私にはこの脚本家が、女性化するのにアンドロメダ瞬をチョイスした気持ちがよくわかる。

 いや、わからない人なんていないだろう。

 もしあなたが「聖闘士星矢のキャラの中で女性化させるのが適当なのは誰か」と聞かれたとすれば、絶対に瞬を思い浮かべたはずである。

(しかし、口にするのは別のキャラかもしれない。

 人に聞かせる/見せる回答には、ウケ狙いや「普通の回答はしたくない」という要素が混じるからだ。)

 

 つくづく思うのだが、聖闘士星矢にせよプリキュアにせよ、日本のほぼ全ての創作物にせよ―― 

 それらに貫かれているのは、それらを支えているのは、まぎれもなく「美人資本主義」である。

 端的に言えば、その世界では、「美しくなければ存在さえも許されない」のだ。

 いったいアニメでも漫画でも、その主要人物である女性や女の子が不美人・非美少女だなんて作品を、あなたはどれだけ見たことがあるか。

 そんなものは需要者も望まなければ、製作者も望みはしない。

 少なくとも日本の創作世界には、美人・美少女以外の女性は、まさに存在さえしない。

 そして「男の子でもプリキュアになれる!」かもしれないが、それは当然のことながら、元からの美少年にしか許されない。

 誰に許されないか受け入れられないかと言えば、視聴者と製作者の両方にである。


 現代日本の子どもも大人もこういう作品群に囲まれて生きているのだから、

「美しくなければ価値がない」

「何でも出来る! 何でもなれる!

 しかし美しくなければ何にもなれない」

 と考えたり刷り込まれたりするのは、全く理に叶ったことと言える。

 製作者たちと受け手たちは、こういうメッセージを送り、そして共感している、とも言えるだろうか。