プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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プリキュアジェンダー論への素朴な疑問-なぜ女の子「ヒーロー」は依然としてフリフリ衣装を着るのか、ジェンダーフリーでも女を捨てるのはタブー?

 6月10日放送のアニメ『HUGっと!プリキュア』第19話で「ジェンダー論」が展開されたということで、ネット風に言えばちょっとした「共感の嵐」状態らしい。

 私は(もちろん?)プリキュアを見ていないのだが、作中ではフィギュアスケーターの少年が「男の子だってお姫様になれる!」と “名言” をかましたらしい。

 どうも作中のプリキュア(もちろん女子)の一人が、「女の子もヒーローになれる!」というヒーローショーに出演しようとして「ヒーローって男のこと、女の子にはふさわしくない」と反対されたことが、前フリになっていたらしい。

 そしてこのアオリか、白樺リゾート池の平ホテルのCM「女の子はプリキュア 男の子は仮面ライダー」というフレーズが叩かれて取り下げられる、ということも起こったようだ。

animeanime.jp

 

nlab.itmedia.co.jp


 これについて私がかねがね疑問に思っていたことを、箇条書きにしてみよう。

(もちろん、アニメとかドラマとかいう創作世界についての話である。)


(1) どうして「男だけど女になっていい!」みたいなことを言う男性・少年は、決まって元から女のような美青年・美少年なのか。

  なぜ決まってフィギュアスケーターとかデザイナーとかいう職業で、建設作業員であることは絶無なのか。

  せめて、ただのサラリーマンということはないのか。

  ごく少数ながらそういう話もあることはあるが、なぜその場合は決まってギャグになるのか。


(2) 女がヒーロー(男)になってももちろんよいが、なぜそれでもあの「フリフリの、女の子性・女性性を過剰にアピールするとしか言いようがないカワイイ衣装」は断じて捨てないのか。


(3) 男がお姫様になっても別によいが、それがイコールあの「フリフリのお姫様風衣装」を着ることを意味するのはなぜなのか。

  それってつまり、「女というのは、そういう衣装を着るのが好きだ/好きであるべきだ」という固定観念・決めつけというものではないか。


 これらに加え、このブログの過去記事でも書いたのだが――


(4) なぜ男性同性愛者(ホモ)や女みたいな男(オカマ)は世の中にこれほど広く受け入れられている/笑いのネタにされているのに、女性同性愛者(レズ)や男そのもののような女は、笑いのネタにもならないのか。

  なぜ何でもありのプロレス界にさえ、男色ディーノのようなガチホモキャラはいても、ガチレズレスラーはついぞ現れないのか。


 という疑問もある。

tairanaritoshi-2.hatenablog.com


 総じて、世の中の大多数の人は――

 もしかして、「男が男を捨てるのはおおらかに受け入れても、女が女を捨てるのは忌まわしいことと思っている」のではないかと思える。

 みなさんも、“男みたいな女” とか “男装の麗人” とかいったキャラは、今まで無数に見てきただろう。

 しかしもちろん気づいているだろうが、それはむしろ「女なのに男の格好をしている」――

 という、むしろ女の魅力を逆にアピールしている(ことを狙っている)キャラばかりなのである。

 
 私にもあなたにも、以上の疑問にはある程度の答えが出せる。

 まずもってプリキュアは、「女児向け」しかも「アニメ」なのだ。

 そこにブス・ブサイクのキャラが現れる余地など全くない。

 お姫様になりたいのは当然美少年だし、それが「フリフリの衣装を着たい」を意味しないわけはない。

(二次元創作の世界とは、このブログで何度も書いてきた「美人資本主義」が、骨の髄まで貫徹しているジャンルである。)
  

 現実世界では、女から男に性転換して「ヒゲを生やしている」人だっている。

 きっと汚いシャツを着て、目立つほどの筋肉質で毛深い体で、ズボラな生活をしている男への性転換者もいるだろう。

 しかし、アニメの創作世界でそんな人はついぞ出てこない。

 いないのは、視聴者にウケないからである。需要がないからである。

 言い換えれば世の中の人は、そういうジェンダーフリーは受け入れようとしないわけだ。

(さらに言い換えれば、創作者たちはそういう世間におもねっているのかもしれない。)


 今回のプリキュアは、「女の子になりたい男の子」を描いた。

 しかし思うにその逆の、「男の子になりたい女の子」は描かないのではないか。

 たとえ描いても、その女の子が従来の「男装の麗人」の枠をはみ出ることはないと思われる。

 そしてたとえはみ出たとしても、それは視聴者にウケない――今回のような共感を呼ぶことはない――だろうとも思われる。


 要約するに、プリキュアジェンダーフリー論も世間一般の感覚というのも――

 どうも「女性性>男性性」(女性性の方が男性性より尊い)という、抜きがたい性的固定観念があるように思われる。

 「女性は新たな生命を産み育てるから尊い・偉い」というのがその代表例である。


 女がヒーロー(男性英雄)の役割を担っても(願っても)、それでもカワイイ系衣装は絶対に捨てることがない――

 そんなことはジェンダーフリーに共感する視聴者さえ望まない、というのは、相当に深刻な固定観念と言うべきだろう。


 もしプリキュアの一人があの衣装を捨て、ヒゲを生やし、低い声質で男言葉を常用するようなエピソードが放送(制作)されたとしたら――

 もしそのエピソードに視聴者の共感が集まった、という記事がネットに載ったとしたら――

 そのときこそ、日本が真のジェンダーフリーになった日だと思えるのだが……

アインシュタインの差別日記と「ワンピース」作者の横井軍曹炎上コメント-「天才」も「売れっ子作家」も普通の一般人である

 かのアインシュタイン1920年代にアジアを旅行したときの日記が新たに見つかり、そこにはアジア人(特に中国人)を蔑視する描写が随所に見られることが、このたびわかったそうである。

www.bbc.com


 そしてこの日本では、大人気マンガ『ワンピース』の作者・尾田栄一郎氏がコミックス89巻の表紙(の折り込んだ所)の作者コメント欄で、

 あの「戦争が終わったことを知らず三十年近く南の島で潜伏活動していた日本兵」故・横田庄一軍曹をギャグネタにしたということで炎上、

 ジャンプ編集部が謝罪文を掲載するという出来事があった。

nlab.itmedia.co.jp


 私としては、横井軍曹や小野田少尉といった「最後の日本兵」を、「公然と」逆ネタにしようという気にはならない。

 しかし、友達同士だけの席の内輪ネタとしては、口にすることがあるかもしれない。

 このたびの新幹線内殺傷事件だって、日本中で「おまえ、ナタでぶっ殺すぞ」なんて冗談で口にする人は、何百人・何千人といるはずである。 

 だが、それを公刊物にそのまま書いてしまうと言うのは、ちょっとやろうとは思わない。

 さすがにジャンプ編集部の人も「これはまずいんじゃないの?」くらい思ったかもしれないが、雑誌の看板の超売れっ子作家に対しては、そんな意見すら言えないのだろうか……?

(もっとも、コミックスの表紙折り込みの作者コメント欄なんて、たいていはどうでもいいこと/しょうもないことが書いてあるものではある。

 たぶん編集者らは、そんなのに慣れっこになっているのだろう。)


 さて、言うまでもなくアインシュタインユダヤ人であり、ナチスドイツのユダヤ人迫害の魔手を逃れてアメリカに亡命した人物である。

 そんな人でも、中国人らアジア人には差別感情を持っていたわけだ。

 差別される人がもっと「下」の人を差別する――

 というのは、世にありふれた物悲しい心理の一つである。

 要するに(本当はこれも言うまでもないのだが)アインシュタインとは、そこらのありふれた一般人の一人だったということだ。

 
 このブログでも何度となく書いてきたことなのだが――

 我々は、こういう人たちのことを「偉人」「天才」「すごい人」とかいって賞賛・讃仰するのを、いいかげん止めるべきである。

 アインシュタインとは何者か。

 それは「物理の非常によくできる一般人」である。

 尾田栄一郎氏とは何者か。

 それは「非常の売れるマンガを書く能力のある一般人」である。


 もっと身近に言えば、彼らをはじめとするあらゆる偉人・天才・売れっ子とは、

「これを読んでいるあなたに、何らかの優れた能力がくっついた」というだけの人物なのだ。

 そういう人物がはたして褒め称えられたり畏敬の念を持たれるべき存在なのかどうか、胸に手を当てるまでもなく、あなたにはよくわかっているはずである。

 こういうのは自明のことだと思うのだが――

 しかし世の中では、「人間には上と下がある/あるべきだ」とするのが「正しい道徳観」だと思う人が大多数だというのは、これまた物悲しいことだ。

 アインシュタイン尾田栄一郎氏も、

 故スティーブ・ジョブズも故ケネディ大統領もファーブルも、

 あなたや他の全人類と同じく、そこらの一般人である。

 一般人の中の、才能という当たりクジを引いて生まれてきた人である。


 もしあなたが「宝クジに当たった人は尊敬すべきだ」という意見を持っているなら、それは彼らを尊敬すればよい。

 しかしまず間違いなく、あなたはそれほどヘンな人ではないはずである。

 それなのにやっぱり「宝クジに当たった人はエラい人なんだ」と思うとしたら、なんとおかしなことではないか。

「小川勝也参院議員の息子また児童猥褻で逮捕」と「新幹線殺人者・小島一朗の父の他人事な態度」-「ハズレくじ」問題という人類・人生最大級の問題

 北海道選挙区・無所属の小川勝也参議院議員の息子(22歳)が、またまた児童強制猥褻の疑いで逮捕された。

 2017年11月に一度目、今年3月に二度目、起訴され公判中だったが4月に保釈されたその最中の出来事であった。

www.iza.ne.jp


 そしてまた、例の新幹線殺傷事件の小島一朗(22歳)の父親も、そのコメントがあまりに他人事のようだと非難されている。

www.yomiuri.co.jp


 小川ジュニアのペドフィリア小児性愛)ぶりは、もちろんビョーキである。

 これはもう、一生かかっても治らないかもしれない。

 こんな息子を持った小川勝也氏は気の毒だ、と思うのは、間違った感じ方だろうか。

 小島一朗のような息子を持ったその父親は(母親は、親族は)気の毒だ、と思うのも間違っているだろうか。

 
 抑えられない変態性欲を持って生まれてくること、 

 新幹線でナタを振るって「誰でもいいから殺したい」と思い詰める素質を持って生まれてくること、

 これはどちらも、本人にはどうにもならないことである。

 と同時に、もちろんその親にもどうにもならないことである。

 育て方がどうとか言ったって、生まれ持った素質を変えることはできない。

 その素質がどこでどうスイッチが入るのか、予測することなど誰にもできない。

 つまりこれは、たまたま運悪く「ハズレくじ」「貧乏クジ」を引くかどうかという問題に還元されてしまうように思える。

tairanaritoshi-2.hatenablog.com


 

tairanaritoshi-2.hatenablog.com


 小島一朗という男は、子どもの頃から「変な子」だったと父親は言う。

 そして今は疎遠になり、接触もほとんどなかったという。

 父親の気持ちになってみれば、「ハズレくじを引かされた上にこんな事件まで起こされてさらに自分が批判されるなんて、たまったもんじゃない」というところではないだろうか。

 小川勝也参院議員にしても、こんな息子を持ったのが身の不幸だと嘆くのを、誰が「いや、育て方が悪いんだろ」と責められるだろう。

 
 思うに現代日本では、「血のつながり」というものが非常に重視・神聖視されている。

 現実世界での「世襲」はおろか、マンガやアニメの世界ですら「血統主義」がはびこっている。

 その度合いはもしかしたら、かつての封建時代よりはなはだしいかもしれない。

(昔の大名家なんて、血縁のない他の家から普通に跡継ぎ用の養子をもらってきていたものだ。)


 上杉謙信亡き後の上杉家の内乱「御館(おたて)の乱」は、謙信の養子(そして謙信も属していた長尾家の一族)である景勝と、関東北条家から養子に来ていた景虎が争ったものである。

 しかし現代人の目から見れば、この北条家の人間である景虎が、景勝と拮抗する対抗馬になるなんてこと、非常に不思議に思えるのではないか。

 なんたって景虎は、上杉(長尾)の血を引いていないのである。

 そんなのが多くの支持を集めるなんて、むしろ現代での方があり得ない話である。

 だが昔は、そうではなかった。

 現代日本人は、戦国日本人や江戸日本人よりずっとずっと血統主義になってしまった。


 小川ジュニアや小島一朗のような子どもを(あなたが)持つかどうかは、ひとえに単なる偶然である。

 自分の力ではどうにもならないことである。

 なのに血のつながりがあるからと言って、少なくとも道義的責任は負うべきだとされる――

 「外れクジを引くことには責任がある」と主張すれば、おそらく万人が「そんなバカなことはない」と否定する。

 それなのにその同じ万人が、事件を起こしたらやっぱり親も悪いのだ/責任を感じるべきだと「理屈抜きに感じる」のは、やはり血統主義のなせる業だろうか。


 この「外れクジ・貧乏クジ」を引くという恐怖ないし懸念は、人生と人類にとって最大級の課題だろう。

 いったいこれまで、そしてこれからも――

 どれほど多くの人間がパートナーに外れクジを引き、わが子に貧乏クジを引いて、人生を台無しにしてきたか空恐ろしいものがある。


 はたして血のつながりがあるからと言って、この単なる偶然について親が責任を負うべきなのかどうか……

 もしあなたが外れクジを引いたなら、その答えは明らかだろうと思われる。