プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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トランプ大統領、エルサレムをイスラエルの首都と正式認定-これでアメリカの北朝鮮攻撃はないのか?

 これはビックリである。

 年の瀬も迫った今になって、今年トップクラスの大ニュースが飛び込んできた。

 アメリカのトランプ大統領が12月6日、あの“聖都”エルサレムイスラエルの首都だと公式に認定したのである。

www.afpbb.com

 

markethack.net


 もちろんイスラエル自身はずっと昔からエルサレムが自国の首都だと宣言し、大使館をそこへ移転するように各国へ促していた。

 しかし世界中のどこの国もエルサレムイスラエルの首都だと認めてこなかったし、大使館を移転することもなかった。

 エルサレムイスラム教の聖地でもあるし、深刻なパレスチナ問題がある。

 そんなことしたら一方的にイスラエルの味方をすることになるので、当然やるのがはばかられたのである。

 だが、今までの世界各国及びアメリカ大統領が誰もやろうとしなかったことを、トランプはやった。

 これはたぶん、アメリカ以外の全ての国から懸念や猛批判されたとしても、それなりの成算があるのだろう。


 と言うより、このことは大統領選におけるトランプの公約だった。

 だから、履行するのが当然と言えば当然である。

 また上記引用記事にもあるように、そもそもアメリカ議会は1995年にエルサレム大使館法を(圧倒的票数差で)成立させ――

 本当は1999年5月31日までにエルサレムへ米大使館を移転させるはずだったのだ。


 にもかかわらず、歴代のアメリカ大統領はそれに拒否権を行使してきた。

 クリントンオバマがそうするのは意外でないとしても、ブッシュJr.さえもあえてエルサレムへ大使館を移そうなどとはしなかった。

 それを断行したトランプは、もちろん世界からボロクソ叩かれるにしても――

 良く言えば、

「あくまで公約を守る男」

「決断力のある男」

「ヤルと言ったらヤル男」

 という評判をまたまた高めたことになる。

 これは彼の、非常に強力な武器になることを認めないわけにはいかないだろう。


 それにしてもアメリカとイスラエル、本当に切っても切れない関係である。

 10月のUNESCO(ユネスコ)共同脱退に続き、アメリカはもうこれ以上ない方法で――まるで結婚したみたいな選択で――イスラエルと共に歩むことを決めたことになる。

tairanaritoshi-2.hatenablog.com

 

 しかしこの時期にこんなことをするということは、東アジアで北朝鮮に軍事的オプションをアメリカが取るという可能性は、極めて低いものになったということだろうか……

最高裁判決「NHK受信料強制は合憲」-裁判と法律は“結論ありき”である/及び理系と文系の溝

 12月6日、最高裁大法廷は「テレビを持っていれば、NHKを見ていなくてもNHK受信料の支払い義務がある」とする放送法第64条を合憲であると判決した。

 「この規定は、国民の知る権利を確保するための立法の裁量範囲内の規定だから」という理由である。

 

www.yomiuri.co.jp


 この裁判、確かに注目されてはいたが――

 この判決、予想どおりと感じた人が大多数だったのではないか。

 だいたい、最高裁が「NHK受信料の強制徴収は違憲」と判決するわけがないのである。

 そんなことしたら、それこそ甚大な社会的影響をもたらしてしまうからである。


 この判決に限った話ではないが、裁判そして法律というのは――

 根本的に、あらかじめ「結論ありき」の産物である。

 

 特に民法の本を読めばすぐわかることだが、たとえば「不法行為」の論理構成というのは、

 もう始めから

「被害者を救済せねばならない。

 よって、被告の会社に法的責任=賠償金支払義務を負わせなければならない。

 そのためにはどういう理屈づけをすればいいか」

 という流れ以外の何ものでもない。


 今回のNHK受信料の件にしたって、最高裁判事の頭の中には始めから

「これを違憲にしちゃマズいだろう。

 違憲にしないためにはどういう論理構成をすればいいか」

 という“お題”があり、それを基に自分で考え、他の判事と話をしたに決まっているのである。


 そして注目の裁判となればいつもそうだが――

 人は自分に都合のいい(自分の思想に合う)判決が出れば「司法の判断を尊重しろ!」と感じ、

 都合が悪い(気に入らない)判決が出れば「日本の司法はおかしい!」と感じるものだ。

 それは当然の人情である。


 しかしやっぱり、理系の人から見ればこんなのは軽蔑に値する世界には違いない。

 最高裁はもちろん一国の司法の最高権威機関だし、

 法律学と言えば文系科目の中でも最高クラスの学問だと世間ではイメージされている。

 裁判官・弁護士と言えば、文系エリートの頂点あるいは雲の上の職業だと思われている。

 だがその彼らがやっていることは、基本的に“結論ありき”の学問なのだ。

 “結論ありき”と言えば世間一般でも、悪いこと/デタラメなこと/必要悪みたいなこと、の代名詞のように使われている。

 たぶんあなた自身も職場とかで、“結論ありき”の上層部の方針を理屈づけるために、さんざん苦労して資料とかを作ったことがあるはずである。

 そしてそれは、やっぱり間違っている(けども仕方ない)と感じたはずである。


 私はまるきり文系の人間なのだが、しかし「科学」や「理系の人」が、こういう“結論ありき”の人々や学問自体を見下す気持ちはよくわかる。

 こういうのはバカバカしいか?

 確かにバカバカしい。

 しかし世界が理系と文系の二つでできているのなら、世界の半分は(いや、半分以上は)そのバカバカしさでできているのだろう……

百円ショップ「ダイソー」社長・矢野博丈と「知力を越える度胸」

 ダ・ヴィンチニュースに、今度出版される百円ショップ「ダイソー」社長・矢野博丈(やの ひろたけ)氏の本『百円の男 ダイソー矢野博丈』(大下英治・著、さくら舎)の紹介記事が載っていた。

ddnavi.com


 たとえダイソーの名は知らなくても、百円ショップの存在と名を知らない日本人はいない。

 ダイソーはその先駆者で、業界最大手の“百円ショップの帝王”である。

 ダイソーの百円ショップはもはや、単なるチェーン店と言うよりは(確かにコンビニまでは行かないが)日本人の準ライフラインの一つとも言える存在だろう。

 その創業者(で現社長)の矢野氏の一代記がこのたび本になったわけだが――

 おそらく多くの読者はすでに、その豊臣秀吉やトンパチなプロレスラーをも凌ぐようなジェットコースター人生を聞きかじった(読みかじった)ことがあるはずである。

 矢野社長は夜逃げ経験者で、リヤカーで物を売り歩く行商人であった。

 それがいまや、国内外5000店舗と年商4200億円を誇る大企業の総帥である。

(それでいて矢野社長は、極端なまでの悲観主義者として有名だ……)


 ただ矢野社長は、ついに「株式上場」と「後継者へのバトンタッチ」を考えているようである。

business.nikkeibp.co.jp

 

 さて、上記の新刊紹介記事を読んで抱くのは、「男は度胸、女は愛嬌」という古い?言葉は――

 女は愛嬌が決め手なのかどうかは別として、男は度胸が決め手だというのはやっぱり完璧に正しい、という感想である。

 「度胸」とは、人間界で最も重要な属性である。

 その重要度は、「頭の良さ(知力)」をはるかに上回るものがある。


 私は矢野社長の知力を侮るものでは決してないが――

 しかし矢野社長は、勉強しても東大や司法試験には受からないし、MBA経営学修士号)もまずは取れない人だと思う。

 だがそんなのは物の数ではないのである。

 矢野社長は、ほとんど全ての東大卒業生や弁護士・MBA保有者よりも、はるかにずっと巨大な富と影響力を築き上げた。

(なんたって、新しい業態と広範な社会インフラを創造したのだ。こんな人は世界中を見渡してもごく少数だろう。)


 おそらく矢野社長はリヤカー時代を過ぎてからも、

「ボストン・コンサルティンググループのプロダクト・ポートフォリオ・マネジメント」

「アンゾフの成長マトリクス」

 なんてものを聞いたことはなかっただろう。

 ポーターやコトラーやミンツバーグなんて名を聞いても、「誰それ?」と聞き返したのではないだろうか。

(少なくとも、自分からそんなのを知ろうとしたとは想像しがたい。そんなのを勉強するヒマはなかったはずだ。) 


 しかし(我々に希望を持たせるかのように)、そんなのをまるで知らなくたって商売はできる。

 リヤカーの行商から日本有数の大企業(規模はともかく、名声や浸透度は超一流である)に成長することは可能なのだ。

 
 思えばビル・ゲイツも故スティーブ・ジョブズも、別にMBAの勉強をしたわけではなかった。

 世界の名だたる起業家&大富豪の中で、そんなことをした人は全然例外的である。

 彼らには、そんな勉強を(自分で)やってるヒマはない。

 いや彼らほどでなくても、そしてMBAが何の略か全然知らないし知る気もないとしても、世の優良中小企業の社長さんにはMBA修士よりずっと金を稼いでいる人がゴマンといる。

 「いくら頭が良くたって、それほど頭の良くない奴にしばしば(収入的に)負ける」――

 これは神童と呼ばれる人たちにとっては悲劇だが、やはり人間社会の妙味と言えよう。


 では、それほどまでに頭が良くなくても成功するという人は、そうでない人と何が違うのか。

 その答えこそ「度胸」である。


 早い話、そもそも度胸がないのなら、いまの職を辞めて起業すること自体ができない。

 これが原因で(意に染まぬ)勤め人暮らしを続けている人がどれほど多いか、たぶん空恐ろしいくらいだろう。

 あなたは(私もそうだが)、いまの職を失ったらリアカーを引いて行商する度胸があるだろうか。

 たいていの人はそんな度胸はなく、やっぱりハローワークに行くものである。


 しかしそれも、やむを得ないことである。

 別に矢野社長やビル・ゲイツに比べて自分が下だと卑下しなくてもいいのである。

 なぜなら度胸があるかないかは、ただの偶然――

 そんな度胸を持って生まれてくるか来ないかは、完全に偶然の結果だからである。

 

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『尊敬なき社会 (上)-「尊敬」は民主主義の敵である』

 


 残念ながら度胸なく生まれてきた我々は、度胸ある成功者を見て卑下しなくてもいい。

 しかしだからといって、まるで「勤め人だけがまっとうな生き方で、そうでない人はロクでもない/人の道を踏み外した人間」みたいなことを思ったり言ったりしないようにしたいものだ。

 こういう人間もまた、世の中に(あなたの身近に)どれほど多くいるか空恐ろしいくらいなのだが……